風雲篇(江戸・大坂)
● 薩摩藩邸焼討
そのころ、江戸の世情は騒然としていました。物価の高騰に加えて、前年からつづく米穀の不作で米価が暴騰、市中に貧民が集結して富者に物乞いをする姿が各所でみられました。しかも、10月ごろから浮浪、暴徒の横行が甚だしく、強盗や暴行が頻発して江戸中が物騒になっていました。
奉行所ではこうした事件の関与が疑われる浪人らが三田の薩摩藩邸に出入りしていることをつき止め、その対応に苦慮していました。
相手が薩摩藩では町方与力、同心らが強気に出ることもためらわれたので、庄内藩主・酒井忠篤が浮浪の者を集めて新徴組を組織し、市中を巡視する役目を負わせました。でも賊徒を捕縛するにはいたらず、状況は好転しませんでした。幕府内では京都の士が臆病で弱腰であるとして、薩邸の挑発的な乱暴狼藉を懲らして、上方の臆病どもを奮起させ、東西呼応して薩長を征伐すべし、という意見が高まってきました。
そんな時期に江戸城の二の丸が不審火によって焼失、翌23日には庄内藩の屯所が襲撃をうけたのです。12月25日、ついに幕府側と薩摩藩邸の全面対決となり、庄内藩兵と新徴組(千人)を主力に、上山、鯖江などの人数合わせて約2千人が三田の薩邸をとり囲みました。
砲撃は早朝より開始され、すぐさま邸内からも応戦、あたりはたちまち炎上して黒煙が立ち昇るのを、当時、私塾の用地購入のために芝にいた福沢諭吉が目撃しています。
薩摩藩邸の留守居役、篠崎彦十郎は浪人兵に自由行動をとるよう命じたので、彼らは砲弾を冒して門外に突出、運よく敵中突破した者たちは品川湾に停泊していた薩船・翔鳳丸(461トン)に逃れることができました。しかし、幕府側の艦船が追跡してきたので、大砲の撃ち合いとなり、薩船から二発が幕艦にあたると、ようやく諦めて立ち去りました。翔鳳丸も砲弾で数箇所が破損したため、伊豆下田湊で船を修繕してから、大坂方面に脱走しました。
この戦いで、薩摩がわは留守居役の篠崎以下40人が死亡、70人が拘留、浪士約60人のうち28人は翔鳳丸に逃れ、残りは幕艦に妨げられて散り散りに遁走しました。江戸におけるこの薩邸焼討の事件が、上方での鳥羽・伏見の開戦を決定づけることになったのです。
江戸から事件の一報が大坂に届いたのは12月28日。江戸の不穏な状況はそれ以前から伝わっており、会津・桑名両藩はもとより強硬派だったので、薩摩藩に対する敵意は頂点に達しました。大坂城内は沸騰し、はやりにはやった城兵らは槍を取って廊下で振り試し、銃創を御殿の中坪で点検する者もあり、もはや開戦は避けがたい状況になりました。
老中格松平豊前守などは「大坂を徘徊する薩人一人を斬るごとに、十五金を与えよ」と言いだし、慶喜があわてて制止するほどでした。のちに慶喜が当時の状況を述懐しています。
――このとき、自分は風邪を引いて床にあったが、板倉伊賀守がやって来て、将士の激昂は大変なもので、このままでは済まない。帯兵上京の事なくてはとても治まらない、とくり返し説いた。自分は読んでいた孫子を示して、「彼を知り、己を知れば、百戦危うからず」といい、試に問おう。「今、幕府に西郷吉之助に匹敵する人物がいるか」というと、伊賀守はしばらく考えて「無し」と答えた。「さらば大久保一蔵ほどの者がいるか」と問うたら、伊賀守また「無し」と言った。(略)
このような有様では、戦うとも必勝期し難いばかりでなく、ついにはいたずらに朝敵の汚名を蒙るだけなので、決してこちらより戦を挑んではならない。
板倉、永井はしきりに将士激動の状を説いて、「公(慶喜)もし飽くまでもその請を許し給わずば、公を刺しても脱走しかねまじき勢いなり」(略)
江戸にて薩邸を討った後は、なおさら城中将士の激動制すことができなくなり、ついに彼らは君側の姦を払う由を外国公使にも通告して、入京の途に就き、かの鳥羽、伏見の戦を開くことになった。
こうして年が明けた1月3日、幕末の終焉を告げる鳥羽・伏見の戦の火蓋がきられ、明治維新へと「歴史の扉」が大きく開かれることになったのです。
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