木戸孝允への旅はつづく 79


風雲篇(鳥羽・伏見)

● 鳥羽・伏見の戦い

 慶喜が大兵を率いて上京するという噂はすでに、前年の暮から京都に広まっていました。そうしたなか、岩倉具視は土佐、越前などの調停論に耳をかたむけ、なんとか朝幕戦を回避し平和裏に王政復古の政体を実現できないものか、最後まで妥協案を探っていました。正月2日の朝議では、「会津・桑名両藩を帰国させてから慶喜を上京させよ」(薩摩側)という意見と、「両藩だけに帰国を命ずるのはおかしいから、慶喜と共に両藩の上京も許すべきだ」(尾張、越前、土佐など)という意見が相譲らず、容易に結論がでませんでした。

 まさにその論争中に、大坂から幕軍出兵の報が入ってきたのです。ここに調停派の尽力は水泡に帰し、岩倉も、西郷・大久保らの武力倒幕策に乗る覚悟をかためました。といっても薩長以外の主だった藩は非戦解決に固執し、慶喜を議定職に迎えようとしていたのですから、開戦後に各藩がどちらに味方するのか予測しがたい状況でした。しかも幕府軍の総勢1万5千に対して、薩長軍は3千にも満たず、討幕派に確かな勝算があったわけではなかったのです。

 幕府軍の入京を食い止めるため、薩摩藩は主として鳥羽街道、長州藩は伏見街道に兵を配し、土佐藩も伏見市外の一角を守備していました。一方、幕府がわでは伏見奉行所に歩兵二大隊、新選組200人、会津兵若干が駐屯し、2日夜半にはさらに兵力が増強されました。
 3日午後5時ごろ、幕軍の前衛が下鳥羽付近で薩軍の偵察隊と遭遇し、通行の是非をめぐって押し問答になりました。「朝廷の許可がなければ通行は許さない」と言って、薩摩がわが前進しようとする幕軍の縦隊を押し留めます。通せ、いや通さぬ、で埒が明かず、業を煮やした大目付の滝川具挙(ともたか)がついに歩兵縦隊に前進を命じました。滝川は慶喜から討薩の表を託されており、朝廷への使者として当然入京できるものと安易に考えていたようです。したがって、兵に弾込めさえさせておらず、戦闘の準備もないままに前進を開始しました。

 そのとき、ラッパが鳴り、薩軍の四斤山砲が轟音を発しました。至近弾の炸裂で滝川の馬が驚いて狂奔したので、旧幕軍の歩兵隊は隊列を崩し大混乱に陥ってしまいました。それでも、佐々木唯三郎が指揮する見廻組は槍を手にして突撃、一時は善戦したものの、敵方の銃陣の前で甚大な被害を受けて退却を余儀なくされました。

 鳥羽の砲声は伏見にもとどき、伏見奉行所から会津藩兵、新選組、幕府歩兵大隊が突撃し、戦闘が開始されました。ここでも開戦前には「入京を待て」という長州がわと、「いや待たぬ」という会津がわとの押し問答がつづいて世が明け、その間に幕軍の総指揮官、竹中重固(しげかた)が歩兵一個大隊をひきいて伏見にはいっており、薩摩の援軍も到着していました。
 長州藩の林半七は第二奇兵隊125人を指揮して伏見の守備についていました。伏見での戦いは市街戦で、道路は碁盤目状に走っていたので見通しはよいのですが、敵がどこからくるかわからない。それで、長州は南のほうへ向かって撃ち、薩摩は横のほうから西に向かって砲撃し、ちょうど十文字に撃ったので、射程距離にとび出した幕兵が次々に斃れていきました。

 土佐藩は容堂公が藩兵に参戦を禁じていたので、戦意に欠けていました。そのため、竹田街道に進もうとした会津兵(隊長は臼井五郎太夫)と遭遇したとき、「ここは進軍無用。別路であれば弊藩の関知するところではない」と答えて衝突を回避しました。それで臼井隊は市街地を迂回して、土佐藩の陣地の背後に出て、堺町の薩摩藩邸を襲って火を放ち、竹田街道を北上しました。
 竹田街道には薩長の守備兵がおらず、このまま進めば京都に入ることもできたと思われますが、なぜか途中で竹中重固から「撤収せよ」という伝令がとどいたために、京都を目前にしながら引き返してしまいました。
 伏見にもどってみると、奉行所が燃えており(長州の間者の仕業らしい)、幕府軍は淀城まで後退し、本営を移すことになりました。こうして幕府がわはどの隊も入京を果し得ず、初戦が京都がわの勝利に終わったことは、のちの展開にも大きく影響することになったのです。

 明けて4日、幕府軍は大挙して伏見・鳥羽両道から進撃してきました。鳥羽では薩軍がこれを迎え撃ちますが苦戦、長州方に援兵を乞うてきました。まず、相国寺駐屯の第三中隊(整武隊)が赴き、たまたま見回りで鳥羽口までやってきた東福寺駐屯の第一中隊(奇兵隊)、第五中隊(第二奇兵隊)の一部が薩軍の苦戦を目撃して応援に加わり、薩長軍は激戦の末になんとか敵軍を退却させました。
 この戦では薩摩の本営(東寺)からも援兵を投入したので、京都市内の守備兵は薩長合わせても 560人程度になり、どこかの藩が幕軍に味方したら京都を守りきれたかどうか――まことに薄氷を踏むような危うい状況で薩長軍は戦っていたのです。


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