木戸孝允への旅はつづく 80


風雲篇(鳥羽・伏見)

● 慶喜の大坂脱出

 4日、京都の空に錦旗が翻りました。仁和寺宮が征討総督に任ぜられ、5日には東寺から淀方面に向けて出馬。戦場の砲煙のなか、堂々たる錦の御旗がたなびくのを見て、西がわの兵士たちは歓喜し、大いに鼓舞されました。この時点で討幕軍は事実上の官軍となり、幕府軍は朝敵となってしまったのです。
 この日、淀藩は幕府軍の入城を拒み、6日には山崎を守備していた津藩も官軍がわに寝返りました。

 大坂城ではまだ戦況を知らない慶喜が諸将を集め、徹底抗戦を主張していました。

「たとえ千騎戦歿して一騎となろうとも、退いてはならぬ。みな力を尽くして戦うのだ。もしこの地で敗れても関東がある。関東で敗れても水戸がある。けっして戦いは止めない」

 この言葉が使者をとおして戦地に伝わると、みな感激して大いに士気が高まりました。慶喜は優勢な兵力からみて、本当に勝利を信じていたのでしょう。しかし、その後、会津藩から敗戦の報が入り、自分が朝敵となったことを知ると、彼は動揺します。尊皇攘夷の思想を全国に広めた水戸藩出身の前将軍にとって、朝廷に向かって弓引くことは家訓に逆らうことでもあったのです。

 5日夜に、会津藩士・神保修理が前線の視察からもどって来ました。彼は藩主・松平容保に兵を収めて東帰することを進言し、慶喜にも直接会って大坂脱出を勧めました。しかし、それまでに慶喜の腹はすでに決まっていたと思われます。問題は血気にはやる将兵たちが、おとなしく大坂退去の方針にしたがうかどうかでした。現に彼らは、慶喜自ら出馬して前線の士気を奮い立たせ、薩長を討つべし、と迫っていたのです。
「よし、これよりすぐに出馬する。皆々用意せよ」
 慶喜が欺いて答えると、一同大いに喜び勇んで持場にもどっていきました。その間に彼は会津・桑名両藩主らを連れて、ひそかに後門より脱出。そのとき衛兵が見咎めて誰何しましたが、「御小姓の交替です」と答えたので、怪しまれずに通過することができました。
 
 こうして六日夜、慶喜は徳川の軍艦・開陽丸(2730トン)に乗り、江戸を目指して出帆しました。大坂城に取り残された事情を知らない家臣らは、7日になって慶喜の不在を知り、茫然自失したことは想像に難くありません。

 慶喜にたいする追討令は7日に出されますが、同じ7日付で慶喜は「このたび上京途上、偶然の行き違いにより騒動が生じましたが、朝廷にたいして二心はありません。大坂城は尾張、越前両藩にお預けして江戸に退くことにいたします」という趣旨の奉聞書を認めており、この書は越前藩士を介して朝廷に届けられました。朝廷がわでは突然のことで、半信半疑に受け取ったようです。

 そうした事情が伝わらないまま、長州の徳山・岩国両支藩の部隊が敵情偵察のため、淀川を船で下って大坂に入りました。大坂城では慶喜の命により残務処理にあたっていた目付妻木頼矩が長州部隊の代表を迎え入れ、城明渡しの交渉がなされることになりました。尾張・越前からまだ正式な使者が来ていなかったからです。
 単なる一部隊の隊長らが、まさに長州征伐の本営であった大坂城に入って、城明渡しの交渉をするとは、幕長戦中には考えられもしなかったことでしょう。昨日は滅亡の危機にあった者たちが、今日は勝者となって敵地に立つ――人の世の有為転変は思いがけず、さまざまなドラマを生み出すようです。

 1月12日、大坂を退去した慶喜が無事江戸に着いたころ、桂小五郎あらため木戸孝允は、藩命により備前藩を味方につけるべく、岡山に向かっていました。おりしも神戸では備前藩兵と上陸中の外国兵との間で銃撃戦が勃発するという事件が起きていました(* 神戸事件)。英米兵が神戸で備前藩士の往来を抑止し、諸藩の戦艦を拘留しているという話が岡山に伝わってくると、憤慨した藩士らが「夷狄討つべし」と叫び、暴挙に出ようとする不穏な情況になりました。木戸はこれを憂慮して、自ら諸外国と交渉しようと岡山を発ち、1月21日夜、京都に到着しました。
 25日、参与兼総裁局顧問に任ぜられた木戸は、薩摩の大久保らとともに、外交のほか宮廷改革や遷都論など、新政府発足時における諸問題の解決に取り組むことになりました。

 * 神戸事件 − 慶応4年1月11日、神戸三宮で備前藩の行列先を横ぎったフランス兵を同藩士が負傷させたことから、英米仏の海兵らと銃撃戦に発展した事件。死者は出なかったが、一部公使らの強硬な処罰要求に抗しきれず、馬廻役の瀧善三郎を切腹させて結着に至った。


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