木戸孝允への旅はつづく 8


青年時代(江戸)

● 剣術家としての名声高まる

安政2年(1855)5月、長州藩で天保改革を行った村田清風が脳溢血で亡くなりました。享年73歳。村田の後継者である周布政之助らは財政改革に失敗し、かわって村田の政敵、坪井九右衛門を継承する椋梨藤太らが藩政の実権を握りました。幕藩体制内での穏やかな改革を目指す坪井・椋梨派はいわゆる「俗論派」と呼ばれ、幕藩体制をも改革の対象とする村田・周布派は「正義派」として後に知られますが、この頃、小五郎はまだ藩政に携わる身分ではなく、依然として江戸で修業中でした。
同年1月に江川太郎左衛門が亡くなったので、小五郎は安政3年から手塚律蔵の又新堂(ゆうしんどう)に通いはじめ、そこで神田孝平に蘭学兵法を学ぶことになりました。手塚は周防の村医の息子でしたが、老中堀田正睦(佐倉藩)に仕え、藩の後援で又新堂を開塾したのです。開国論者だったので攘夷派からは嫌われていたようです。

さて練兵館では小五郎はどのように過ごしていたのでしょうか。塾頭になってから間もなくして、彼は相模湾警備を命じられ、その後は軍艦製造の手配などで忙しく、道場にはほとんど出ることができない状態でした。それでも弥九郎は小五郎を塾頭から外すことなく、ずっと小五郎が戻ってくるのを待ちました。異例の寛大さであり、それだけ小五郎に寄せる期待や信頼も大きかったのでしょう。安政3年以降はようやく塾頭の生活に戻ることができました。小五郎は安政2年6月に遊学期間の延長を藩に願い出て1年間の延長が認められ、10月には身分も給費生になっていました。安政3年にはさらに1年半の留学延期が認められました。この時期には壬生藩、大村藩に出稽古に行き、さらに高遠藩にも請われて遠く信州まで剣術を指導しに行き、藩主を大いに喜ばせています。こうして斎藤道場の桂小五郎の名は次第に知られるようになり、剣技も一段と磨かれるとともに、小五郎の他藩に対する外交感覚も自然に身についていったのです。

この頃、桃井春蔵の士学館には武市瑞山(半平太)が、千葉定吉の柳橋道場には坂本龍馬がいました。武市はのちに土佐勤王党を創始した人です。安政4年10月3日に江戸の土佐藩邸で武術大会が催されましたが、小五郎と龍馬はこれに出場しています。でも、安政5年10月25日に鏡新明智流の浅蜊(あさり)河岸の道場で催された撃剣会で、小五郎と龍馬が立合い、互角の勝負をして最後には龍馬が勝ったというかなり有名な話は、どうやら史実ではないようです。武市半平太の書簡にその話が載っているということですが、武市はその時期には土佐に戻っており、龍馬も安政5年9月に帰国しています。二人とも江戸にいないのですから、勝負のしようもないし、報告もできるはずがありません。明治時代になってから、志士たちの活躍をおもしろくするために創作されたのでしょう。ただ、前記のように他藩に招かれることが多かった小五郎の剣が江戸で評判になっていたことは事実です。
虚弱体質だった少年時代と違って、剣術に鍛えられた小五郎の身体は見違えるように逞しくなり、塾生たちを指導する塾頭としての人格には威風さえ備わってきて、安政4年に藩命で萩から相模の警衛地に来ていた友人の来原良蔵も、久しぶりに会った小五郎の成長ぶりには驚いたようです。
この来原と小五郎の妹治子は安政3年(1856)9月に結婚しました。小五郎も気になっていた治子が気心の知れた友人の妻となることで、ほっとしたのではないでしょうか。来原と治子の息子がのちに木戸家を継ぐことになるのですから、縁が深かったといえましょう。でも、これより6年後、この夫婦には思いがけない悲劇が待っていました。


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