木戸孝允への旅はつづく 81


風雲篇(京都)

● 新政府の多難な船出

 前年12月9日(王政復古の時)に、新政府は総裁、議定、参与の三職制を発足させましたが、1月17日には議定、参与の下にさらに神祗、内国、外国、海陸軍、会計、刑法、制度の7科を設けました。しかし、その事務総督には公家がすわり、事務掛には各藩の才子が配せられたものの、とても適材適所という陣容ではありませんでした。
 問題は旧態依然とした朝廷のあり方で、公卿らは一時の勝利をよろこび、摂関政治の復活を当然のように期待していたのです。しかも天皇のいるところを雲上といい、公卿を雲上人と唱え、龍顔は拝しがたきものとして尊ぶあまりに天皇を御簾深くに隠して、自分たちも高貴な身分との意識から尊大に振るまい、世上とは隔絶した世界をつくっていました。
 
 こうした状況に危機意識を強く持ったのは当時、内国事務掛の任にあった薩摩の大久保一蔵でした。この旧態を打破し維新の体制を整えるには遷都以外にない、と彼は思い詰め、有栖川宮総裁に大坂遷都について提言しました。その後、長州の広沢兵助(真臣。参与兼海陸軍務掛)にこの件について相談し、岩倉、三条にも自分の意見を伝えたのです。
 1月23日、遷都の問題が廟議に掛けられることになりましたが、出席した土佐の容堂公、越前、宇和島両公らの賛同を得ることはできませんでした。大久保は失望し、焦燥しました。天皇が京都の御所に居わしては大変革は不可能であり、建武中興の二の舞になりかねない。西欧では帝王が1、2の従者を伴い、国内を歩いて万民と接触しているというのに…

 大久保の切実な想いとは裏腹に、公家がわは反対を唱え、とくに久我建通は強硬で、「薩長が私権を張るための陰謀である」とまで主張していたのです。大久保に同調する岩倉に対する反発も強く、新政府は旧幕軍ばかりでなく、宮廷との抗争にも迅速な対応を迫られていました。
 鳥羽伏見の戦いに勝利したとはいえ、江戸はまだ徳川家の支配下にあり、東北諸藩の趨勢も定かでなく、この先どのように事態が推移するか予断を許さない状況でした。公家方はそうした危機意識にも欠けていたのです。

「木戸に相談してみてはどうか」
 現状の打開を図って岩倉が大久保に助言し、26日には大久保が木戸を河原町の長州藩邸に訪ねてきました。二人は太政官に赴いた後、三本木の酒楼で互いに新政府の諸問題を話し合いました。その中で大久保は改めて大坂遷都の建言をめぐる経緯について木戸に説明したのです。むろん木戸は遷都については賛成でした。旧弊の打破は旧幕府でも、宮廷でも同様の問題だったからです。
「後藤が遷都について、内心では反対しているようだが…」
 と大久保が土佐藩の動きに懸念を漏らすと、
「後藤が反対? そんなことはありません。彼が反対するはずはない」
 木戸はきっぱりと言い、この問題の解決について自信を示しました。
 二人の意見は大方一致して、その後は大久保の家に赴いて一晩を過ごし、翌27日にはともに参朝し、岩倉、三条両公と論議におよびました。

 新政府発足以来、この大坂遷都論が木戸・大久保という薩・長両巨頭の協力体制の端緒だったと言えましょう。二人はその後、明治10年に至るまで時に結束し、時に反発し合いながらも、明治政府創業の波乱の時代を共に生き、さまざまな事変を共に乗り越えていくことになるのです。

 新政府の問題は遷都論だけではありませんでした。未だ各藩が割拠している状況では財政の基盤が築けず、軍資金どころか日常の用度にも不自由していました。そのため財政担当の三岡八郎(越前藩士。のち由利公正)の発案により金札(太政官札)を発行することになりましたが、その準備が整うまで待つ余裕がありません。そこで京阪の豪商・三井、小野、島田、鴻池などに三百万両の調達を命じ、まず天皇の大坂行幸の経費という名目で十万両を拠出させたのです。
 こうして急場は凌げても、御用金にばかり頼っていてはこの後、旧幕がわとの戦闘にも、新政の施設にも不都合が生じかねず、根本的な資金不足の解決にはほど遠い状況を脱したわけではありませんでした。

 さらなる問題として、国内の攘夷思想がいまだ衰えず、神戸事件のあとにも外国人との衝突が生じていました。2月14日、堺で土佐藩士によるフランス水兵殺傷事件が起こり、結果的に双方あわせて22人の死者を出す始末になってしまったのです。
 こうした事件の再発を心配していた木戸は、新しい刑法制定に関する意見書をすでに提出していたのですが、彼の懸念は現実となってしまいました。外国人が乱暴を働いた際の取り締まり、罰則を明確に定めなければ、外国からの内政干渉を引き起こしかねないことは明らかでした。しかし、新政府はようやく西日本を平定したに過ぎず、東半分にはまだ支配がおよんでいないために、列強から日本で唯一の合法政権として認められる状況ではありませんでした。

 新政府の船出はまことに前途多難で、この後も木戸、大久保ら新政府指導層の悪戦苦闘は続くことになります。


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