木戸孝允への旅はつづく 82


風雲篇(京都、江戸)

● 西郷・勝の会談

 慶応4年2月12日、西郷隆盛が薩摩藩兵をひきいて京都を発し、15日には総督・有栖川宮が出京。総督宮はすでに先発していた東海道、東山道、北陸三道の鎮撫総督軍およそ5万の将兵をひきいて東征の途につきました。さぞかし物々しい軍装の隊列と思えますが、このとき、兵士たちは歌をうたいながら行軍していました。「トコトンヤレ節」という、品川弥次郎が即興で作ったと言われる歌で、「宮さん、宮さん、お馬の前に〜」で始まる軽快な曲だったので、一般の民衆にも親しまれて、全国で歌われるようになりました。

 一方、江戸にもどった慶喜は、フランス公使ロッシュから薩長土軍を静岡で迎え撃つことを勧められていました。天皇を補佐し、徳川家が中心になって諸侯とともに改革を進めるという、いわば公武合体論と大差ない案で、ロッシュは新政府の主力を成す薩長軍を討ち果たせば、すべては自分たちの計画どおりになると思ったようです。軍の指揮はフランス軍事顧問団に任せてくれ、ということで、慶喜もこの提案に心を動かされたようです。

 しかし、旧幕がわでこの案に反対したのが勝海舟と大久保一翁でした。1月23日付で陸軍総裁に就任した勝に、シャノアーヌ仏大尉が作戦地図を見せて、「戦えば必ず勝つ」と大坂奪還を主張しました。勝は内戦が続けば日本が疲弊して植民地化に繋がりかねないと危惧し、この案を拒否しました。
 慶喜は江戸にもどってからすぐに天璋院(薩摩藩・島津斉彬養女、徳川家定夫人)や静寛院宮(孝明天皇の妹和宮、徳川家茂夫人)に頼って、引退と謝罪の事を相談しており、21日には静寛院宮の使者として、土御門藤子が京都に向けて発っています。その一方で、フランスの主戦論に耳を傾け、恭順か、戦いの継続か、この時点でも慶喜の心は揺れ動いていたようです。

 しかし、京都の岩倉が松平春嶽に託した手紙によって、徳川家の存続が許されたことを知ると、慶喜は2月12日には江戸城を出て、上野の寛永寺に蟄居、謹慎しました。でも、それでおさまらないのが旧幕臣たちで、23日にはおよそ130人が浅草・本願寺に集結、慶喜の警護を名目に彰義隊が結成されました。その後、別の武装集団が市中のあちこちで発生したため、のちに江戸に入った官軍がわがその扱いに手を焼くことになります。

 勝海舟は江戸の不穏な空気を憂慮して、旧幕がわの主戦派と官軍との交戦をなんとか回避したいと思っていました。そこで旗本の山岡鉄舟を使者として、西郷のもとへ派遣し、3月9日に山岡は駿府で西郷と会見しました。その時、西郷が降伏の主な条件として提示したのは、次の5項目でした。

一、徳川慶喜を備前藩に預かること。
一、城を明け渡すこと。
一、城中の家臣を向島に移すこと。
一、兵器一切を引き渡すこと。
一、全軍艦を引き渡すこと。

 このうち4つの条件は謹んで承る、と山岡は答えましたが、慶喜の備前藩預かりだけは承服するに忍びがたい、と言い、西郷にその撤回を求めます。西郷は「朝命である」として、最初は承諾しませんでしたが、家臣の情に訴える山岡に最後には同情して、
「慶喜のことは、この西郷がきっと引き受ける」
 と約して、山岡を感激させました。

 3月13日、西郷は江戸に到着し、高輪の薩摩藩邸に入りました。その日、すぐに勝が藩邸に西郷を訪ねてきました。官軍がわの総攻撃の日は3月15日と決まっていたからです。西郷と勝の会談は翌14日にも行なわれ、この会談で官軍がわによる江戸城総攻撃の中止が決定されました。
 最初、西郷は江戸の武力制圧を是とし、慶喜の処分についても極刑を主張していましたが、それが変化したのは、イギリス公使パークスの働きかけも影響していたようです。

 勝も開戦と不戦、両様の策をもって、西郷との会談に臨んでいました。もし交渉決裂の場合には、江戸を焦土と化しても官軍と刺し違えるという戦術を考え、相当な覚悟をもっていたようです。しかし、西郷の人物には感心し、のちに次のように回想しています。
「向うに西郷が居なかったら、到底なにもできなかった。〜 特に感心したのは、西郷が自分を待つに、幕府の重臣たる礼を失わず、談判の際にも始終座を正しくし、手を座席につき、一点も戦勝の威を輝かして、敗軍の将に対するごとき挙動のなかった事だ」

 西郷・勝の会談がまだ実現していない2月、木戸は京都にあって、早くも版籍奉還の建白書を副総裁・三条実美に提出していました。幕藩体制を一新せよ、という革命的政治家の片鱗は、すでに慶応が明治に改元される前に現れていました。各藩が軍隊を擁してそれぞれ割拠した状態での「列侯中心の政治」ではいけない、という木戸の思想は、「広く会議を興し、万機公論に決すべし」から始まる「五箇条の御誓文」をのちに実現化する根本の原動力であったようです。


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