風雲篇(京都)
● 五箇条の御誓文
さて、外国勢の動静ですが、前将軍慶喜が上野に蟄居してからは、旧幕がわに肩入れしてきたフランス公使ロッシュもその方針を転換せざるを得ませんでした。ロッシュは明治天皇への謁見を決意し、他の各国公使とともに、2月30日に御所を訪れることになりました。
ところが、その日、イギリス公使パークスの一行が御所に向かう途上、何者かの襲撃を受けたのです。賊は男二人で、白刃を振るって隊列に襲い掛かってきました。突然のことで、防御体制が整わなかったイギリス人がわは一方的に斬りまくられ、随伴していた応接係の中井弘蔵が必死に賊の一人と斬り結んだものの、他の官吏らは狼狽するばかりで助太刀もしませんでした。そのとき、異変に気づいた後藤象二郎が馬から下りて駆けつけ、男を袈裟懸けに斬り倒しました。
もうひとりの刺客はパークスを狙って斬りかかりましたが、パークスはとっさに馬を走らせて、難を逃れました。その後、刺客は護衛兵一人を斬り、他の英兵にも兇暴に挑みかかりましたが、自らも負傷して、最後には逃げ込んだ民家の庭で捕縛されました。
中井、後藤両名の決死の奮戦を知って、パークスもその憤りをやわらげたようです。御所への参内は3月3日に改めて設定され、昇殿を許されなかったアーネスト・サトウに代わって伊藤俊輔を通訳として、謁見の儀式が無事とり行われました。二人の刺客は林田貞堅(偽名:朱雀操。元京都代官の下士)と三枝茂(一向宗の元僧侶。一時、天誅組に関与)で、捕縛された三枝はのちに斬首され、すでに死亡していた林田と共に3日間梟首の刑に処せられました。
この事件にいよいよ危機感を募らせたのが木戸孝允でした。すでに神戸事件、堺事件と日本人と外国人との衝突・殺傷事件がつづき、さらにまたイギリス公使襲撃事件が起こってしまったのです。過激な攘夷活動がいっこうに治まらない状況では、新政府の安定化は望むべくもありません。しかも、旧幕勢力との戦いはまだ終息したわけではないのです。
こうした状況を焦慮し、3月に木戸は意見書を提出しました。その主旨は――維新間もないので、天皇の御主意が普(あまね)く徹底していない。諸藩もなお方向を異にしており、攘夷を妄信する輩が国家を危うくしている。願わくは、前途の大方向を定めて、天皇が公卿諸侯百官を率いて神明に誓い、開国進取の国是を天下に示されることを心から願っている。
木戸は五事の誓文を定めて、国是(国家の基本方針)を天下に示すべきことを強く訴えたのです。五箇条はまず由利公正(三岡八郎)が起草し、これを福岡孝弟が潤色し、さらに木戸孝允が修正を加えて完成させたと言われています。
由利が五箇条を起草した動機は、木戸とはすこし違っていました。新政府には財政の基盤がなく、軍資金にも困窮していたことはすでに述べました。慶応4年1月に、由利は会計担当として必要とみた300万両の調達をどうやってするべきか、考えなければなりませんでした。諸藩や民から一度にそんな大金を集めるのは不可能なので、金札(太政官札)で補う以外にない。その返納を13箇年とし、その間に経綸を盛んにして富国の源を築き、仁政の基をも開けば、両目的を同時に達成できる――。
つまり、経済を活性化させることが肝腎であるということで、新政府の基本方針を定めて、天下に公表する必要性に迫られたのです。由利の原案は次のとおりです。
一 庶民志を遂げ、人心をして倦まざらしむるを欲す。
一 士民心を一にし、盛に経綸を行ふを要す。
一 知識を世界に求め、広く皇基を振起すべし。
一 貢士期限を以って、賢才に譲るべし。
一 万機公論に決し、私に論ずるなかれ。
この「議事之體大意」と題する草案には、横井小楠の思想が色濃く反映されているようです。由利はこの案を福岡孝弟に委ね、福岡がこれを次のように修正しました。
一 列侯会議を興し、万機公論に決すべし。
一 官武一途、庶民に至る迄、各其志を遂げ、人心をして倦まざらしむるを欲す。
一 上下心を一にし、盛に経綸を行ふべし。
一 知識を世界に求め、大に皇基を振起すべし。
一 徴士期限を以て、賢才に譲るべし。
福岡が「列侯会議を興し」を追加したのは、土佐藩の方針を意識したからなのでしょう。同じ藩の暗殺された坂本龍馬と同様に、藩主会議を重要視していたことがわかります。題も「盟約」に改められました。のちに福岡自身が「朝廷と諸侯が一体となって、天下の政治を行なうという点を眼目とし、一般庶民は〜政治上の一要素とは見なかったのである」と語っています。
1月上旬には出来上がっていたこの五箇条の草案が、どうして3月になるまで日の目をみなかったのか、という疑問が起ります。前述の連続した攘夷事件、各国公使との折衝、東征、遷都問題など、新政府が多事多忙だったからにほかなりません。それに、岩倉具視、大久保利通といった新政府の重鎮らがこの草案の件をそれほど重視していなかったからとも思われます。
しかし、木戸はこの五条の速やかな発表を最重要視して、草案に自ら手を加え、前述の意見書を提出するに至ったのです。題名の「盟約」を「誓」に改めた木戸の修正案は、
一 広く会議を興し、万機公論に決すべし。
一 上下心を一にして、盛に経綸を行ふべし。
一 官武一途、庶民に至る迄、各其志を遂げ、人心をして倦まざらしめんことを要す。
一 旧来の陋習を破り、天地の公道に基くべし。
一 知識を世界に求め、大に皇基を振起すべし。
順序は前後しますが、最後の「徴士期限を以て〜」を木戸は削って、「旧来の陋習を破り〜」に差し替えました。前者は人事上の問題に過ぎず、国家の基本方針として、どちらがよりふさわしいかは自明の理でしょう。旧来の陋習を破ることこそ、新しい日本の出発点にほかならず、そのために木戸らはその後もさんざんに苦労することになりますが、その事情は第二部の「明治維新」編で語ることになりましょう。
また、福岡が追加した「列侯会議を興し」を彼は最終稿で削り、「広く会議を興し」に修正しました。旧大名中心の政治体制は、すでに版籍奉還の意見書を提出していた木戸の頭の中にはまったくなかったからだと思われます。
木戸の「誓約」という提案については、岩倉や中山忠能などの公卿らが異議を唱え、天皇が諸侯と誓約を交わすというのは支那流儀の覇道であり、本朝の国体に反するといって、難色を示しました。「では、天皇自ら天地神明に誓う、という形にすればよいでしょう」と木戸は主張し、そのとおりに行なわれることになりました。
慶応4(1868)年3月14日、紫宸殿において「五箇条の御誓文」発布の儀式が厳かに始まりました。公卿諸侯が衣冠の正装姿で居並ぶなか、儀式は神道に則ってまず清めの塩水、散米が行なわれ、神歌が奏せられました。さらに神々に供物が捧げられたあと、天皇が三条実美、岩倉具視らを従えて出御し、四季屏風で囲われた玉座に着座しました。
三条が神位の前に進み出て祝詞を奏し、次いで五箇条の御誓文を読み上げました。まさに、わが国に前例のない革新的な内容でした。その後、参列者およそ500人が宣誓、署名し、当日不在の者たちも後に参内して署名し、署名者は合計767人に達しました。
こうして儀式は木戸孝允の主張どおり「御誓文」のかたちをもって実現し、天皇が群臣を率いて誓った以上、これを破ることはもはや許されない、という彼の強い思いが感じられます。ここに近代日本建設の基本理念が天下に公表され、確立されたのです。
同年7月17日、江戸は東京と改められ、9月8日、慶応は明治と改元されて、それ以降一世一元制となりました。しかしなお、風雲の時代が終わりを告げる気配はなく、「新日本丸」に乗り込んだ指導者たちの多難な航行はつづいてゆくことになります。(「木戸孝允への旅−幕末編」完)
補記(御誓文と同時に発表された「宸翰」(天皇の書状)について
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