木戸孝允への旅の再開 84


維新編(明治元年)

● 戊辰戦争

 新政府の木戸と大久保

 慶応4年(1868)3月14日、新政府の基本方針である五箇条の誓文が発表され、4月11日に江戸城の無血開城がなされる直前の経緯については幕末編で触れました。それでも旧幕がわと新政府との戦いが収束したわけではなく、徳川慶喜の水戸行に従わなかった彰義隊一派が多数江戸に残って抗戦、さらに会津・庄内藩、仙台、米沢などの奥羽、北越諸藩が同盟を結んで新政府に対抗する展開が生じようとしていました。

 そうしたなか、発足後間もない京都の新政府はまだ確固たる体制を確立していませんでした。すでに木戸孝允は広沢真臣と共に徴士罷免を願い出ていましたが、総裁局顧問の職をも辞したいと言いはじめたのです。当時、長州藩では人材が払底して藩政に支障が生じていたため、しきりに木戸の帰藩を促していたという事情がありました。それに加えて、共に顧問職にあった小松(薩摩)、後藤象二郎(土佐)は外交のため兵庫にいて、実際には木戸ひとりにその職務が任せられていたのです。木戸は多忙のあまり任に耐えずという理由で辞職を請うたのですが、別の深慮もあったようです。

 岩倉具視はこれを憂慮して木戸に説得を試みたところ、「一人では大任に耐えないので、大久保が顧問に就くというなら辞職願を取り下げてもよい」という留任の条件を聞きだしました。岩倉はこの件を薩摩藩主・島津忠義に相談し、忠義をして大久保に説かしめ、最終的に大久保が木戸と共に顧問職に就くことを了承したのです。

 このあたりの事情はなかなか興味ぶかいので、さらに深く考察したいところですが長くなりそうなので、この件に関する大久保の意見を紹介するにとどめます。最初にこの問題を知らされたとき、彼は木戸が辞職することのないよう、手紙で岩倉からの説得を請うています。
 実に今、この人(木戸のこと)をおいては他に人物は天下にいないと思います。と述べ、

 今天下を熟察するに、安き者は三にして、危き者は七。その安危は皆御任に帰し申し候。光武の量、文帝の仁、深く御熟考遊ばされ候よう願い奉り候。

 木戸ひとりの去就が天下の安危におよぼす影響の大きさを、大久保はこの時点で強く意識していたことがわかります。それは薩長連合以来、彼が観察し、築き上げてきた木戸孝允の人物像であったのでしょう。木戸については生前、坂本龍馬が実家への手紙で「長州に人物なしといえども、桂小五郎なるものあり」 と述べ、また中岡慎太郎も「胆あり識あり、思慮周密、廟堂の論に耐ゆる者は長州の桂小五郎」 と評していましたから、誰もが初対面で指導者たる者の才気を印象づける人物だったことがうかがわれます

 英雄、英雄を知る。新政府に欠くべからざる人物である、との思いはまた、木戸の大久保に対する評価でもありました。だからこそ大久保が顧問に復職することを、自らが当職にとどまる条件にしたのでしょう。それは薩長連合を天下に知らせる木戸の深慮でもありました。実は当時、官軍中に薩人は横暴であるとして憤慨する者たちがおり、とくに長州人は長陣の末に不戦となった経緯がわからず、西郷に対する反対意見をもって京都に来るものもありました。また旧幕がわにも、いずれ薩長は不和となり、離間するに違いないから、その時を待って反撃すべしとの意見が広まっていました。

 そうした事情を知って、薩長両藩の結束を、新政府において大久保とともに連帯責任を負うことによって、天下に知らしめる思惑が木戸にはあったようです。大久保のほうは顧問に就くことになんらかの遠慮があったようですが、木戸を失うことを恐れてその条件を受け入れたことが、大久保日記から察せられます。

 彰義隊と大村益次郎 − 上野戦争

 佐賀藩の江藤新平は木戸の推挙により、軍監として江戸に派遣されていましたが、4月下旬に急きょ京都にもどってきました。その頃、江戸は旧幕府の旗本や陸海軍の脱走者がぞくぞくと彰義隊に加わって、新政府軍に対抗する一大勢力となっていました。慶喜が退隠先の水戸に退いたあとも、彰義隊副頭取・天野八郎一派は江戸にとどまり、上野を拠点として官軍の兵士を挑発し、暗殺するまでになっていたのです。しかし、東征軍の総指揮者・西郷はなぜか直接その解決に乗り出さず、もっぱら旧幕臣の勝海舟らに説得工作を任せていました。そのため、大総督府は容易に江戸の支配権を確立できず、相当に危い状況が続いていました。

 こうした江戸の情勢に危機感をもった江藤は、京都にもどると速やかな江戸対策を訴えて意見書を提出しました。実際、味方の中には「西郷が勝にだまされている」と非難する者たちがいて、土佐の板垣退助(東山道先鋒総督府参謀)なども西郷路線に強い不満を持っていました。江藤からの報告を受けて、京都の新政府は長州の大村益次郎を軍防事務局判事に任命し、江戸に派遣することにしました。大村は、木戸が桂小五郎時代にその才能を見出して取り立ててきた人物です(「幕末篇」参照)。彼は閏4月4日に江戸に到着し、こう着した事態の打開を図って、彰義隊の討伐作戦を進めることになったのです。

 ところが大村の前に立ちはだかる人物がいました。薩摩の海江田信義で、彼は大総督府では西郷に次ぐ実力者でした。作戦計画ではことごとく大村と対立し、あとから来た大村はなかなかその地位を認めてもらえず、だんだんと孤立してしまいます。一時は、もう京都に帰ろう、とさえ思ったほどでした。
「自分は朝廷の委任を受けて来たのだから、したがってほしい」と大村が訴えても、海江田は、
「自分も参謀の一人だ。あなたの専決を認めるわけにはいかない」
 と一歩も譲らない構えです。林玖十郎など、別の参謀も大村に反対して、
「兵が足らない。関東を鎮定するには2万の兵がいる」と論じます。
「なに3千も集めれば、賊は破れる」
 大村が自信をもって答え、さらに「兵が足らないとは、戦を知らない者のいうことだ」
 などと、言わなければいいことまで言い足すので、相手は
「戦を知らないとは何事か!」 と怒り出し、喧嘩が始まってしまうのです。

 一説には、西郷が「大村氏は勝てる勝算があればこそ、委任せよと言われるに違いない。勝てさえするなら、その戦略を承らんでもよかろう」という一言で軍議は討伐に決した、といいます。(「大西郷全集」)

 また、彰義隊征伐の各部署を大村が秘密に割り当て、これを発表する前に西郷にだけ知らせた。西郷はこれを熟視して曰く、「薩兵を皆殺しにする朝意でごわすか」 大村は静かに扇子を開閉し、天を仰いでしばらく無言の後に、「然り」と答えた。(その返事を聞いて)西郷は無言のまま退いた。(「防長回天史」)

 薩摩藩が配された上野黒門口は、実際には誰もが希望するほど重要な部署だったので、前述の話は薩長の軋轢を強調した逸話に過ぎないと思われますが、最終的に西郷が大村の策に従ったことで、大総督府の秩序も保たれたのでしょう。

 軍議では夜襲という案も出たのですが、大村はこれをきっぱり否定しました。向こうは徳川の誠意に背く不逞の残賊だから、勅命によって、正々堂々と白昼に行うべきである。また、皆烏合の衆だから、そんなに恐るべき相手ではない。夜襲などすれば、戦の手が広がって、あちこちに隠れて火を放ち、江戸市中を灰燼に付するようなことがあるかもしれぬ。それでは朝廷に対して申しわけない。江戸城も無事に受け取ったのだから、江戸の町は焼きたくない――
 戦禍を最小限度にとどめることが、夜襲を不可とする大村の意志であったようです。

 慶応4年5月15日早朝、およそ2千の賊徒を相手に雨中、上野戦争は開始されました。大村の作戦によると、正面の黒門口(主力は薩兵。あとから因州、肥後が加わる)、背後の団子坂(長州兵に大村、佐土原などの藩兵が来援)、側面の本郷台(肥前藩など。アームストロング砲を設置)に官軍の諸藩兵を配して三方から包囲し、東の三河島だけを逃げ口として空けておきました。しかし、黒門口の戦いは彰義隊の善戦によって、一時は薩摩兵が苦戦に陥り、団子坂の長州兵も、敵の伏兵によって一進一退の戦いを強いられました。肥前藩が誇るアームストロング砲も、最初は不忍池に落下して命中率が悪かったのですが、次第に山王台の敵陣地に着弾するようになって彰義隊の勢力をそぎ始めました。そのうち諸藩の来援によって盛り返した薩摩軍が黒門口を突破、長州軍にも援兵が加わってようやく山内に突入しました。官軍の放った火によって坊舎は火炎に包まれ、彰義隊の中には自刃する者あり、三河島から脱出する者ありで、やがて総崩れとなっていきました。

 上野は広さ30万坪ほどの丘陵で、徳川家光の時代に忍ケ丘に創建された寛永寺(開基:天海。天台宗。東叡山と号す)が徳川将軍家の菩提所となっていました。代々日光の輪王寺門主(輪王寺宮)が居住して、天台宗を統括してきました。上野戦争時も彰義隊が輪王寺宮を擁して戦っていたのですが、彰義隊の壊滅後、同宮は寛永寺から無事脱出して江戸市内の寺院に身をひそめました。
 官軍がわの死傷者約120人、彰義隊がわの死者約300余人を出して、上野戦争は1日のうちに終結しました。

 一時は敵が優勢に戦い、午後になっても勝利の報が江戸城中に届かなかったので、心配した将校たちが、やはり夜襲をすればよかったのだ、と言い合い、「先生のお考えはどうですか」と大村にたずねました。大村は懐中時計を取り出してみると、
「この分ならだいじょうぶです。夕方には必ず戦の決着はつくでしょう。もうしばらくお待ちください」
 と動じる気配もありません。大村は城中のやぐらに上がって見ていましたが、上野の方面にあがっていた黒い煙がやがて一面の猛火となって、どんどん燃え上っていきました。
「ははあ、もうこれで始末がつきました。賊兵が上野の山に火をかけて退却したに相違ありません。あれは今、逃げたという合図の知らせです」
 そのうち上野から伝令使が早馬で来て、
「ただ今賊兵は、山中の殿堂に火をかけ残らず退却いたしました。まったく官軍の勝利です」
 と報告したので、一同は大村の予見の正確さに驚き、その知略に感服して、涙を流して喜ぶ者もいた、ということです。

 この一戦は全体からみれば小さな勝利ではありましたが、その効果は甚大でした。失われつつあった新政府の威信がいっきに回復され、関東周辺の反政府勢力に決定的な打撃をあたえただけでなく、日和見を続けていた諸藩の動向をも決定させることになったのです。上野戦争の勝利によって、大村の声望はいよいよ高まり、軍政、民政においてもその任務は重大となっていきました。


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