木戸孝允への旅 85


維新編(明治元年)

● 浦上四番くずれ

 慶応4年(明治元年)、江戸で新政府軍が彰義隊と対立していたころ、京都では諸外国との間で耶蘇教(キリスト教)の禁令について紛争が生じていました。いわゆる「浦上四番くずれ」として知られる長崎のキリスト教徒への弾圧が問題視されていたのです。たまたまこの事件の始末を担当したのが木戸孝允だったために、歴史学者や作家のなかには、いかにも木戸がキリスト教徒を弾圧したかのように批判する者がいますが、木戸の独断でできるわけがないのです。

 もちろん議定、参与、徴士などを徴集して、御前会議で意見聴取を行ったうえで決定された処分でした。木戸の意見は首謀者のみを処罰してあとは全員追放する、という寛典論でした。磔刑か斬罪、梟首など、より厳しい処分を求める者もいたからです。しかし一人でも死罪にすれば、諸外国の反発は必至だったので、首謀者も厳刑に処すべきではない、という参与・小松帯刀の意見を入れて、最終的に信者3千余人の諸藩預かりという処分に決定しました。英国公使パークスの圧力にもかかわらず、キリスト教の解禁については、新政府は拒否を貫きました。 閏4月4日に布告されたキリシタン禁令の高札は、切支丹を邪宗門と呼ぶな、という外国の要求にしたがって2条に分けています。

一 耶蘇宗門の儀は、これまでどおり固く御制禁のこと。
一 邪宗門の儀は固く禁止のこと。

 このときにパークスがキリスト教解禁を諦めたのは、大隈重信の抗弁によるところも大きかったようです。すなわち、教徒を放免し、耶蘇教を解禁することは我が国情から到底許されることではない。また一国の立場からみても、国法を犯した犯罪者を処罰するのに、なんら外国の干渉を受けるべき理由はない。もし日本人が外国の指揮にしたがう日がくれば、日本国は滅亡するほかない、と――。内政干渉と言われれば、剛腕公使も引き下がるほかなかったのでしょう。この外国公使を相手にした堂々たる論陣、誇り高い態度によって、新政府における大隈の評価は大いに高まることになりました。

 実際、この時期、フランスのカトリック宣教師などはそうとう強引な布教活動をしていたので、イギリス人にさえ反感を買っていたのです。そもそも、この浦上キリシタン処分は旧幕府から未解決のまま受け継がれた案件でした。ペリー来日、安政条約の締結を経たのち、慶応元年(1865)に長崎に居留する外国人のために大浦天主堂が建立されました。これを知った男女15人ほどの浦上村民が天主堂を訪れ、フランス人神父に自分たちは先祖以来の信徒であることを打ち明けたのです。突然の「潜伏キリシタン」の出現に、狂喜した神父たちはひそかに彼らを指導。以来、浦上村ばかりでなく、五島、黒崎あたりの信者たちも長崎を訪れるようになり、浦上村にはさらに4軒も天主堂が建ち、ほぼ全村民がキリスト教徒と化していました。彼らは仏葬を拒否して自葬し、キリシタンであることを公言するまでになっていたのです。

 外国への配慮からその対応を躊躇していた長崎奉行ももはや看過できず、主だった68名を捕えて天主堂を破壊しました。これに憤ったフランス公使は幕府に対して猛烈に抗議し、信徒の放免を迫りました。しかし、圧力に屈すれば幕府の威信にもかかわるので、困難な交渉を重ねていましたが、その間に大部分が改心を誓うことになり、信徒は釈放されました。ところが、彼らは外国の援護を頼み、すぐにその改心を翻して村民を扇動したために、再び首謀者が捕えられたのです。その処分も決まらないままに幕府が瓦解するに至り、この問題は新政府の手に委ねられることになりました。

 すでにキリスト教徒の総数は3千を超えるまでになり、その勢いは侮りがたいものがありました。発足したばかりの維新政府はまだ政権の基盤が脆弱で、キリスト教による秩序の攪乱、侵略への警戒心を募らせていました。この問題を担当した者の一人、井上聞多がキリシタンに改宗を促して説得しても、彼らは「天照皇太神のご恩はこの世かぎりですが、耶蘇のご恩は無窮です」 と答えて、容易に説得に応じようとはしませんでした。井上らはもはや指導者を磔刑に処し、残りを罪の軽重にしたがって処罰するほかないという結論に達しました。しかしフランスをはじめとする諸外国の反発も予想されたので、最終決定を太政官に仰ぐことになったのです。

 長崎で、木戸は主なキリシタン114名を呼び出し、諸藩へのお預けを言い渡したのち、津和野(28名)、萩(66名)、福山(20名)の3藩に配流しました。それでもまだ刑が寛大すぎるという不満が、長崎の総督府にはくすぶっていたのです。翌年秋には弾正大忠・渡辺昇の指揮の下、3300余名の村民が捕えられて、21藩に預けられました。中にはこうした配流キリシタンに拷問を加えて転向させようとする藩もあったようです。諸外国公使らのたび重なる抗議を受けても、キリシタンへの弾圧はしばらく続けられましたが、明治6年に条約改正の問題もあって、禁制高札が撤去され、配流信徒らの帰村が実行されました。これが「浦上四番くずれ」と称されるキリシタン問題の決着となりましたが、四番と言われるからには、その前にも3回の露顕事件が、キリシタン禁制の江戸時代にあったわけです。

 浦上一番くずれ ― 寛永14年(1637)、およそ3万8千が蜂起した島原の乱におけるキリシタン皆殺し以降、鎖国下での厳しい禁制にもかかわらず、浦上には信仰を捨てなかった組織的な潜伏キリシタンがいました。寛政2〜7年(1790−1795)、村民19名が大師像造立の寄進に応じなかったことから、庄屋が邪宗門として告訴。しかし証拠がなく、処罰を免れました。2年後の再度の告訴にも、彼らはキリシタン信仰を隠しとおして、ついに難を逃れました。

 浦上二番くずれ ― 天保13年(1842)、密告により帳方利五郎以下指導層が捕えられ、尋問を受けるも、否定し続けたために放免されました。

 浦上三番くずれ ― 安政3年(1856)、内部からの裏切者の密告によって先に15名が、さらに縁者も捕えられました。拷問によって10余名が牢死。生存者は4年の入牢後に、病気療養を理由に帰宅を許されました。浦上四番くずれについては、初めに記述したとおりです。

 豊臣時代、江戸時代、維新初期に至る二百数十年間はまさにキリシタン受難の時代であり、弾圧の悲劇が繰り返されてきました。しかし、そうした弾圧者を現代の感覚で非難しても仕方のないことです。むしろ、日本の支配層にそれほどまでの警戒心と嫌悪感を植え付けてしまった西洋列強のキリスト教を利用した侵略政策にこそ、問題の根源があったと言わねばなりません。日本が世界に門を閉ざし、長い鎖国時代に入った理由もまさにそこにあったのですから。
 
 キリスト教問題が解決されてもなお、新政府の課題は前途に山積みされていました。


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