木戸孝允への旅 86


維新編(明治元年)

● 戊辰戦争(つづき)

 大鳥圭介の動き

 さて戊辰戦争に戻りますと、旧幕府軍歩兵奉行・大鳥圭介は新政府への帰順を拒否し、およそ500人の同志とともに江戸を脱走、日光をめざして北上しました。4月12日に下総市川に入ると、そこで新撰組副長・土方歳三、会津藩・秋月登之助、桑名藩・辰見勘三郎らと合流。大鳥が総督に推され、2千余の兵を2隊に分け、そのうちの1隊を率いて市川を発し、19日には日光街道の要衝・宇都宮城を攻略しました。新政府への帰順を表明した関東諸藩はいずれも弱小で、大鳥軍との衝突を避けたために、容易に北進することができたのです。なお、新撰組局長・近藤勇はこれに先立つ4月3日、下総流山で捕えられ、同25日、板橋で斬首の刑に処せられています。

 これまで新政府軍の小部隊は北関東の局地戦でしばしば旧幕軍に敗れていましたが、薩長兵を主力とする援軍がようやく到着すると、形勢は逆転。新政府軍が宇都宮城を奪還し、大鳥らは日光へ向けて撤退しました。しかし、日光にいた元老中・板倉勝静(かつきよ)から下山を求められたため、やむをえず日光を離れることになります。その後、今市を本拠地として会津藩との連携を図りながら、板垣退助率いる部隊と一進一退の攻防を続けていました。やがて戦局は白河の攻防戦にうつり、板垣軍は白河に転進、大鳥軍も会津に後退することになりました。

 世良修蔵暗殺の真相

 奥羽鎮撫総督・九条道孝、副総督・沢為量(ためかず)は3月には仙台領に入っていましたが、会津追討を命じられた仙台藩は会津藩には同情的だったために、積極的な攻撃を仕掛けることもなく戦意に欠けていました。加えて奥羽諸藩には、薩長が私意をもって年少の天皇を擁し前将軍を朝敵呼ばわりしているという思いから、反感を募らせていました。徳川260年の泰平中にまどろんでいた東北人と、すでに過酷な攘夷・対幕戦争を潜り抜けてきた薩長人とは所詮、理解し合えるはずもなく、東北には反薩長の機運が日を追って高まっていたのです。この奥羽諸藩の緩慢な動きに新政府軍は当惑し、ほとんど孤軍敵地に取り残されたような状況が生じていました。西からの早急な援軍の到着も期待できなかったので、仙台・米沢両藩にひたすら出兵を催促するほかありませんでした。

 仙台・米沢両藩は会津藩の救済について相談し、会津藩には恭順を勧め、奥羽諸藩に対しては会津救済の会議を白石城で開くことを呼びかけました。閏4月11日、仙台、米沢に加えて、盛岡、一関、山形、二本松など25藩が会津藩への寛大な処置を求めた嘆願書に調印。ここに白石連盟が成り、松平容保の降伏嘆願書とともに九条道孝に差し出すことに決しました。こうして仙台藩主・伊達慶邦と米沢藩主・上杉斉憲は岩沼で九条総督と会見し、8時間にもわたってかなり強硬な会津降伏の嘆願を行ったのです。当時、この方面の参謀は薩摩の大山格之助と長州の世良修蔵でしたが、大山は庄内討伐のため、羽州方面に出張中でした。庄内方面も人数が足らず、攻勢が防御に転じ、苦戦している状況でした。

 世良は奥羽の情勢の容易ならざることを痛感していました。この局面を打開するには大規模な援軍を頼むほかないと考え、自ら江戸に行って大総督府に請い、場合によっては京都まで赴く決意を固めました。彼はこれを醍醐忠敬少将に告げたのですが、醍醐は世良の福島行を懸念して引き止めました。しかし世良の決意は固く、閏4月19日には福島に着き、金沢屋という宿に入りました。ここで福島藩の鈴木六太郎を呼び出して、大山格之助への書簡を手渡し、飛脚を立てて大至急届けること、このことは極秘とし、仙台人へは漏らさぬように指示しました。だが鈴木はこの書簡について、福島に来ていた仙台藩の瀬上主膳、姉歯武之進に知らせてしまったのです。彼らが開いてみると、前半は会津藩の謝罪・嘆願書について論じ、後半には、

 この上一応京師へ相伺い奥羽の情実とくと申し入れ、奥羽みな敵と見て、逆撃の大策に致したき候につき、及ばずながら小子急に江戸へ罷り越し、大総督府西郷様へも御示談致し候上、京に登仕り、なお大坂までも罷り越し、大挙奥羽へ皇威の赫然(かくぜん)致し候よう仕りたく存じ奉り候。

 とあり、この部分が世良の運命を決した、というのが大方の見方のようです。
その後、夕方から福島藩の酒宴でもてなされた世良は、娼妓と2階に上がって就寝します。午前2時ごろ、仙台・福島両藩の刺客が寝所に踏み込んで世良を襲撃し、捕縛しました。翌未明、彼らは世良を河原に引き出して首をはね、屍を川に投じ、頭髪の一部は、たまたま福島を訪れていた会津藩士が切り取って持ち帰りました。世良、享年34。

 さて、この顛末ですが、世良の極秘書状を読んで、仙台藩士が激昂したのは確かなことでしょう。ただ、世良の暗殺計画はその時に決まったのではなく、それ以前から進行していたのです。
 仙台藩隊長・佐藤宮内が白河から長沼に出張した際に、茶店で水戸藩士を名乗る者が、話してみると会津人だったことがわかり、その会津人・木村熊之進に面会して曰く、「薩長二藩朝命を矯めて、しきりに兵禍を結ばんとす。惨毒これより大なるはなし。所詮かの世良なるものを討ち取らば、かほどまでに、奥羽の騒擾は見まじきものを、互いに黙契する所ありて〜」(仙台戊辰史)。 また会津戊辰戦史でも同様の記述のある箇所で、「熊之進曰く、停戦の策は、世良修蔵を斬るをえば、乃ち可なりと。」

 その後、白河に還った佐藤は、仙台参謀・大越文五郎と世良殺害について相談すると、大越も賛成しましたが、こうした大事はひそかにすべきものではなく、執政に告げて命令を受けて実行するほうがよい、と答えました。それで、二人は一緒に但木土佐(仙台藩執政)に面会して、この謀(はかりごと)について告げました。但木曰く、卿ら之を計れと。

 では、なぜ世良はそれほどまでに仙台藩士らの反感を買ったのでしょう。但木曰く、九条卿は降を容るゝの思召しなれど、世良修蔵頑としてこれを拒み、禍乱を醸成せんとす、と同戦史にあり、世良が降伏嘆願書を頑なに拒否しているとして、憤激していたことがわかります。世良の意見は、会津との交渉はあくまでも白河口の官軍軍門において公然と行うべきである、というものでした。会津の謝罪嘆願書については総督府から、「今日に至り、謝罪嘆願の名は相立ち申さず。2月中旬ごろにするべきであった。その儀は近日、白河口の出陣先陣門へ来て嘆願するべし〜」との意向が伝えられていたのです。すなわち、もう時期が遅れているから、もし会津が本当に恭順、投降の誠意があるなら、白河口の官軍の陣門にて嘆願するべきである、との総督府の意見に世良は従っていたまでで、彼の独断でこれを拒否していたわけではありませんでした。

 世良にとっては当然の条件だったのですが、彼は自己の任務に忠実なあまり、相手の事情を斟酌できずに、ひたすら直情的な要求を繰り返したために、ただでさえ奥羽諸藩の薩長への反感が強かったところに、火に油を注いでしまったのでしょう。最初に会津・庄内藩の抵抗が強く、仙台・米沢藩がその旗色を容易に明らかにしなかったことから、世良は焦燥し、つい強硬な態度に出てしまったことが双方の誤解を生んで、両陣営とも疑心暗鬼に陥ってしまったと推察されます。徳川時代には同列であった薩長両藩に対して、錦旗を掲げているからといってその正当性を認めることに釈然としない心理が奥羽諸藩に働いていたことも、ついには全面的な東北戦争に突き進む一因になってしまったのかもしれません。

 どちらも勤王を謳っていたのですから無理もなく、各々の言い分はあったでしょう。ただ、佐幕派の勤王は最初に徳川家ありきの勤王であり、自藩の存続を前提にしていたことは疑いを容れません。薩摩・長州はどうだったでしょうか。徳川幕府を倒して、薩摩幕府あるいは長州幕府をうち立てたでしょうか。それどころか版籍奉還、さらには廃藩置県と、自らの藩を含めた全藩を消滅させてしまったのです。しかもそれは、日本の危機を意識したごく一部の指導層が不退転の決意で行ったことであり、薩長の大方の藩士たちも、佐幕藩と同様、自藩の存続(即ち、武士階級の存続)を信じていたことでしょう。のちに新政府の要人が暗殺され、かつての出身藩が反乱(萩の乱、西南の役)を起こすに至ったことも、必然的な現象だったと言えましょう。

 そうしてみると、、多大な犠牲を伴う古い幕藩体制から近代国家への脱皮がいかに困難で奇跡に近かったか、ということがわかるのです。薩長両藩の軋轢もまた維新当初から始まっており、新政府はまさに薄氷の上に危く存立しながら、旧幕府軍との最後の戦いに臨んでいたことになります。


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