木戸孝允への旅 87


維新編(明治元年〜2年)

● 戊辰戦争 ― 函館戦争へ

 奥羽越列藩同盟

 世良修蔵の暗殺後、仙台・米沢両藩は会津追討の拒否を伝える書を連名で総督府に送って、撤兵を開始しました。この動きに他の諸藩も追随し、5月3日には奥羽25藩の重臣たちが仙台城下に集結して攻守同盟を結びました。続いて北越6藩も加わって、ここに仙台藩を盟主とする奥羽越列藩同盟が成立したのです。新政府がわの犠牲者は世良だけにとどまらず、世良と同時に勝見善太郎も殺害され、以後、野村十郎(長州人)、松野儀助(世良の従者)、中村小次郎(長州人)、内山伊右衛門(薩摩人)、鮫島金兵衛(薩摩人)らが斬殺されています。同時期に会津兵は白河城を占領しており、すでに仙台藩と連携した動きだったことがわかります。

 京都の新政府はこの事態を深刻に受け止めました。そこで、これまでの鎮撫政策を廃して、東征大総督に奥羽追討令を発し、徹底的な武力討伐策に方針を転換したのです。大総督府軍務局判事・大村益次郎は、会津を討つ前にまず弱小諸藩を平定する作戦をとり、白河口、越後口、平潟口に10万の兵力を投入して大攻勢をかけました。5月上旬には白河城を奪取し、6月には常陸平潟から北上した新政府軍が棚倉藩を陥落させました。次いで泉、湯長谷、平藩を落とし、7月初旬に秋田藩が同盟を脱退すると、弘前、新庄、守山、三春藩も降伏して、列藩同盟は崩壊の一途をたどる状況となりました。輪王寺宮を軍務総督に擁した効果もなく、7月下旬には二本松城が1日で落城、北陸戦線でも新潟、長岡が陥落しました。

 小藩が苦境に陥っても援軍を送れなかった盟主の仙台、米沢両藩は、9月に入ると本領安堵の降伏条件を受け入れて相次いで降伏し、奥羽越列藩同盟は事実上、瓦解してしまいました。もともと藩内部では抗戦派と帰順派との対立があり矛盾を抱えていたこと、小藩は仙台・米沢などの雄藩には逆らえず、孤立を恐れて同盟に参加したような事情もあって、最初から強固な同盟にはなり得なかったのでしょう。会津藩も9月22日には降伏し、会津と同盟していた庄内藩は26日に、南部藩は10月11日に降伏して、奥羽・北越の戊辰戦争は終息することになりました。

 函館戦争へ

 話は慶応4年(1868)4月に遡りますが、大鳥圭介が江戸を脱走して各地を転戦後に、会津に入ったことはすでに述べました。オランダ留学の経験をもつ海軍副総裁・榎本武揚(たけあき)も、徳川慶喜が水戸に謹慎になった時期に、開陽丸以下8艘の軍艦を率いて江戸湾から脱出していました。しかし勝海舟の必死の説得によって、旧幕府が所有していた軍艦のうち富士山、翔鶴、朝陽、観光の4艘を新政府軍に引き渡しました。

 5月に朝議によって、徳川宗家を田安亀之助(家達)に継がせ、駿河・遠江70万石を与えて一大名とすることが決定されると、榎本は旧幕臣やその家族のために蝦夷地を開拓して、徳川の支藩を新たにつくることを考えました。8月に亀之助が無事駿府に移ると、もはや江戸近海に留まっている意味もなくなり、計画の実現に向けて動き出しました。奥羽の旧幕勢力から来援を求められていたこともあって、8月19日に開陽、回天など8艘を率いて品川沖を出港しました。この榎本艦隊にはブリュネ大尉とカズヌーブがフランス軍に辞表を提出したうえで乗船していました。

 途中、悪天候にみまわれて艦隊は離散し、美嘉保が座礁して沈没、咸臨丸も南西にながされて駿河の清水港に避難中、官軍がわに察知されて富士山、武蔵、飛龍の襲撃を受け、捕獲されてしまいました。その他の艦船が続々と仙台湾に到着するまでには奥羽同盟は崩壊寸前の状況になっており、榎本の説得にもかかわらず、諸藩はあいついで降伏してしまいました。奥羽の敗戦を見とどけると、10月12日、榎本艦隊は仙台湾から函館に向かって出航します。新たに桑名藩主・松平定敬、元老中・板倉勝静、小笠原長行、新撰組副長・土方歳三、大鳥圭介などが合流し、寄港地の宮古湾ではさらに数名のフランス士官が搭乗、函館でも5人のフランス人が合流しています。

 10月20日に榎本艦隊のうち数隻が函館近くの鷲ノ木沖に投錨して上陸を開始しました。新暦では12月に入っており、すでに積雪が30センチもありました。まず人見勝太郎ら30人の先発隊が、函館府に上陸の趣旨を伝えるため、吹雪の中、五稜郭に向けて出発しました。その後大鳥圭介と土方歳三がそれぞれ部隊を率いて函館をめざしました。
 一方、4月に設置された新政府の行政機関・函館府の総督・清水谷公考(きんなる)は、弘前藩、福山藩、大野藩(越前敦賀)から援軍を迎えて、蝦夷地に領地を持つ松前藩兵とともに警備にあたっていました。敵の上陸を知ると、清水谷は先発隊の宿所に夜襲をかけましたが、すぐに大鳥軍が応援にかけつけたために新政府軍は苦戦におちいり、退却を余儀なくされました。旧幕兵は歴戦のつわもので士気高く、数、質ともに劣る新政府軍はどの戦場でも形勢不利となり、敗走に敗走をかさねて、25日には外国船を雇って一旦青森に撤退しました。

 無人となった五稜郭を占拠した旧幕軍は翌27日、土方歳三を総督とする部隊(彰義隊、陸軍隊、額兵隊)を松前藩に派遣しました。松前藩を味方につけようとした工作が失敗したので、討伐することに決したのです。海上からも回天、蟠龍の二艦が松前沖から砲撃を開始しましたが、波が高くて照準が定まらなかったうえに、相手方の砲台からの砲撃にさらされて十分な働きはできませんでした。しかし、陸軍の活躍によって松前城は陥落、城兵は善戦したものの支えきれず、城を脱して江差に向けて敗走しました。

 蝦夷政権誕生

 結局、11月20日に松前藩は降伏を表明、蝦夷地は榎本武揚率いる旧幕軍の手に落ちました。なお、松前藩主・志摩守徳広は江差から青森に逃れましたが、11月29日、弘前の薬王院で病死しています。無念の憤死だったに違いなく、遺士たちは松前城奪還にむけて闘志を燃やすことになります。この戦いで旧幕がわも大しけの中、戦艦2隻を失うという痛手をこうむっていました。主力艦・開陽(2800トン)は座礁して沈没、救援にきた神速も座礁して使用不能になってしまったのです。
 その後、蝦夷地平定の祝賀会が12月15日に催され、五稜郭から101発の祝砲が放たれました。この日、士官以上の者による入札(投票)によって、蝦夷政権の閣僚が選出されました。

総裁:
副総裁: 
海軍奉行: 
陸軍奉行: 
海陸裁判官: 
陸軍奉行並:
 
榎本武揚
松平太郎
荒井郁之助
大鳥圭介
竹中春山、今井信郎
土方歳三
  函館奉行: 
函館奉行並:
松前奉行:
江差奉行:
開拓奉行:
会計奉行:
永井玄蕃
中島三郎助
人見勝太郎
松岡 四郎次郎
沢 太郎左衛門
榎本対馬 

 本営を五稜郭において、いちおう政権の体裁は整えたものの、榎本政権は4千人を超える役人・兵士たちを養わなければならず、前途は多難でした。市中の有力町人に数万両の御用金を課したり、賭博や売女などから運上金を取ったり、贋金を鋳造するなどして資金集めに奔走していました。また、陣屋の普請にも住民がかり出されたため、かなり評判を悪くしてしまったようです。財政のひっ迫は新政府がわにとっても頭痛のタネではありました。

 宮古湾海戦

 大村益次郎は真冬に軍を動かすことは得策ではないと考え、陸軍は青森で冬籠りをし、海軍はその間に軍艦を修繕して軍備を整え、春の開戦に備えるように指示を出しました。明治2年1月に、旧幕府が米国に発注していた軍艦ストーンウォール号が新政府がわに引き渡されました。この軍艦は局外中立を理由に引渡しが留保されていたのですが、前年12月27日に開かれた外国代表者会議によって、局外中立の撤廃が決定されたことから、新政府への譲渡が実現したのです。新政府はこの軍艦を「甲鉄」と名付けて主力艦としました。

 3月9日、甲鉄を旗艦とする新政府艦隊8艘(軍艦4艘: 甲鉄、春日、陽春、丁卯; 運輸船4艘: 飛龍、豊安、戊辰、晨風)が品川沖を抜錨、函館をめざして北上しました。この報は函館にもとどき、大いに警戒した旧幕軍はその対応策を話し合いました。そこで出された案は、新政府艦隊が宮古湾に入港した際に、甲鉄を乗っ取るという大胆な奇襲作戦でした。3月20日、この作戦は実行にうつされ、回天、蟠龍、高尾の3艦が函館を出港しました。しかし、途中で風浪が激しくなり、3艦は互いを見失ってしまいます。翌早朝、回天と高尾は運よく再会しますが、蟠龍は現れず、高尾も機関に故障を起こしていました。そこで、やむなく回天が単独で作戦を決行することになったのです。

 夜明けの時刻に回天は宮古湾に突入。そのまま進行していくと、鍬が崎港に停泊している甲鉄を発見しました。それまで星条旗を掲げていた回天は、敵艦に接近してから日章旗に変えて甲鉄に接触すると、野村理三郎ら7人の斬込み隊が甲板に跳び移りました。それに気づいた敵艦からの砲撃を受け、回天の甲板上には死傷者が続出しました。斬込み隊も無事に戻ってきたのは2人だけで、この作戦は失敗に帰しました。そのうえ、故障で速力の上がらない高尾は、追跡してきた新政府艦隊に追いつかれて投降してしまったのです。回天はのちに姿を現した蟠龍とともに、函館にむかって敗走することになりました。

 五稜郭落城

 新政府艦隊が青森港に入ったのは明治2年3月26日。すでに陸軍部隊は青森に集結しており、陸軍参謀と海軍参謀を兼ねる山田市之允(顕義、長州人)が、蝦夷地上陸の作戦を決行しました。4月6日、艦船8艘と海陸諸兵を率いて青森を発し、乙部村に向かいます。9日に乙部村に上陸すると、江差から敵兵が出てきて攻撃をしかけてきたので、これを撃退。その後、乙部と田沢村の野で両軍が交戦しましたが、新政府艦隊の海上からの砲撃もあって旧幕軍は防戦しきれず退却しました。さらに伊地知休八、東郷平八郎が偵察に出たところ、敵はすでに松前まで撤退していたため、江差は難なく新政府軍の手に落ちました。

 江差では兵を松前口、二股口、木古内口の三方に分け、松前方面では城を奪われた松前藩兵が先鋒となり、進軍を開始しました。途中、山側、海側から来襲した敵兵と激戦となり、一時は苦戦に陥りましたが、第2、第3の援軍が青森から蝦夷地に到着してからは形勢が逆転し、17日には松前城の奪還に成功しました。しかし、木古内口(敵将は大鳥圭介)、二股口(敵将は土方歳三)でも新政府軍は苦戦しており、蝦夷占領軍の侮りがたい手強さには、薩摩の黒田了介(清隆)も大いに警戒心を強め、内田卯之助への手紙で「賊魁榎本、誠に得難い非常の人物にて、人々驚かざる者これ無く、同人のため死生を共にすべしと、一同奮発の由にてござ候」と、榎本には一目置いており、「頼むは長州のみにて、余りは賊より数等落ち候位にて、嘆息の至りにござ候」と、薩兵以外には長州兵しか頼りにならないと嘆いています。

 木古内口、二股口などでの戦線でも激戦の末、勝利した新政府軍は5月11日、海陸両道から函館に総攻撃を開始しました。山田率いる陸軍本隊は七重、大川の両道から進軍し、黒田は背面作戦を指揮して、豊安、飛龍両艦に奇兵を乗せ、函館山に上陸しました。一方、海軍は甲鉄、春日を弁天崎台場に回航させて奇兵の上陸を助け、朝陽、丁卯は七重浜の陸軍を援護砲撃しました。しかし、被弾して航行不能となった旧幕軍の回天が浮砲台として砲弾を連射、弁天崎台場、亀田の浜、一本木台場からもさかんに発砲するので、新政府軍は苦戦し、敵艦蟠龍が放った砲弾が朝陽の火薬庫に命中して爆発、沈没してしまいました(朝陽の乗組員は丁卯や英艦によって救助された)。のちに蟠龍は甲鉄、春日によって追撃され、浅瀬に乗り上げて乗員が台場に逃れたあと、新政府軍が放った火により回天とともに炎上、焼失しています。

 函館山を占拠した奇襲部隊は市街地を制圧し、旧幕軍は回天も失って、五稜郭、千代岡、弁天崎の三カ所を保つだけとなりました。土方歳三は一本木で指揮を執っていましたが、敵弾を腹部に受けて戦死(享年35)。12日には甲鉄から五稜郭に放った砲弾が徐々に命中するようになり、榎本軍がわの死傷者が増えていきました。この時点で新政府軍は降伏の勧告を函館病院の院長を介して行いました。弁天台場の永井尚志は降伏しましたが、千代が岡台場の指揮官・中島三郎助は降伏勧告を拒否し、2人の息子とともに戦死してしまいました(中島については以後の回で詳述)。

 弁天、千代が岡の両台場を失った五稜郭は18日、ついに降伏し、榎本以下千余人が五稜郭を開城、函館戦争は終結しました。こうして前年から1年半におよんだ戊辰戦争は終戦を迎えることになったのです。


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