木戸孝允への旅 88


維新編(明治元年~2年)

● 版籍奉還 - 木戸の苦心

 まだ戊辰戦争が続いていた明治元年9月18日、木戸孝允はある計画を大久保利通にうち明け、その賛同を得ようとしていました。700年来の封建制を廃し諸藩主に版籍(土地、人民)を奉還させるという重要な改革のことでした。それを薩摩藩が率先してやってくれないか、と木戸は大久保に請うたのです。
「それはやらねばならない大事なことだと私も思う。藩の要人とも相談して、なんとか実現にむけて努力してみましょう」
 大久保は賛同したものの、藩を説得するのは容易なことではありませんでした。藩内には保守的な輩も多く、第一に藩主の島津家が歴史ある大名家であり、封建制の放棄には抵抗があったのです。

 木戸はなぜ薩摩藩に主導的な役割を期待したのでしょう。幕末篇でも触れたように、彼が最初に版籍奉還の意見書を提出したのは明治元年2月のことで、まだ五箇条の誓文も発表されていない時期でした。輔相三条実美と岩倉具視は事の重大さを慮って、木戸の意見を秘し、しばらく棚上げにしたのです。まだ東北諸藩の動静もわからない状況で、とてもそのようなことができるわけがない、と両公が思ったとしても無理はありません。しかし、木戸はこれを不満とし、なんとかはやく実現させようと苦心していました。ちょうど閏4月に、キリシタン処分の件で長崎に行くことになり、その途中で山口に立ち寄る機会を得ました。版籍奉還について藩主・毛利敬親に熱心に説くと、殿様は木戸の話に理解を示して同意したものの、藩内の動揺を心配して、慎重に時期を見計らうように注意したのです。

 鳥羽伏見の戦い以降、長州藩は、関ヶ原で負けた相手である徳川に勝った、という戦勝気分に酔いしれていました。今こそ毛利家の天下だ、と思っていたら、木戸などが中央で重用され藩を顧みない、と妬む者も多くいて、なかなか難しい状況が生じていました。前年の暮れに、木戸が小倉(備前)と浜田(石見)の占領地(幕長戦時)を朝廷に返納するように説いていたことも、居残り組の反感を買う原因になっていました。木戸の遠縁にあたる御堀耕助(太田市之進)も、返納などとんでもないことだと反対し、木戸を失望させていたのです。朝廷に直轄領がない状況で統一国家の形成などとても無理であり、まず長州藩が私心のないことを示さなければならない、と木戸は思っていました。

 彼はアメリカ南北戦争に関する知識から、各藩が独立して相争うような状況になることを恐れていました。それを回避するためには、一刻もはやく版籍奉還を実現させる必要があるが、長州藩がこのような状況ではどうしようもない。このうえは、薩摩藩に主導してもらうよりほかないのではないか――木戸がこの計画を大久保に打ち明けて、尽力を請うたのは、こうした経緯からでしたが、自分の思いを十分に伝えるまでには至りませんでした。
 薩摩藩はすでに10万石の献納を2月に願い出ていたのですが、木戸は「10万石ぐらいでは影響がない。各藩がその籍を奉還しなければだめだ」と思っていました。奉還論については、薩摩でも寺島宗則などが唱えていましたが、頑固な島津久光の同意は得られなかったようです。

 木戸の最終目標は版籍奉還によって封建制を廃し、郡県制を敷くこと(「廃藩置県」)にありました。その確固たる土台なくして新国家の建設はあり得ないという思い。しかし、藩の帰属意識が強い藩士たちをどうやって説得すればよいのか、彼は苦悩していました。吉田松陰の松下村塾生であった山縣狂介(有朋)、野村靖之助でさえも封建制維持論者で、御堀も木戸に反抗的な態度を示しており、山縣にいたっては封建制維持の上申書まで提出していたのです。木戸が日記で「友人といへども尚、解せざるものあり。心甚苦歎~」と嘆いた気持ちも察せられます。
 武辺者で政治にうとい御堀もなんとかせねばならぬが、軍事にかかわる山縣もこんな守旧派では後々のためによくない。

 そんな思いから、明治2年、木戸は御堀耕助と山縣狂介をヨーロッパに送り出し、翌3年8月の帰国後には、その保守的姿勢が一変した効果を見ることができました。御堀は病を患い、4年5月に惜しくも病死してしまいますが、山縣は木戸の斡旋で兵部少輔に任じ、その後の活躍は歴史にみるとおりです。野村靖は明治4年10月に岩倉使節団の一員として欧米を視察し、帰国後は外務省に勤務して、以後フランス特命全権公使、内務大臣、逓信大臣などを歴任しています。西欧の実情に触れることが、日本の現状を理解する、なによりの特効薬になったのでしょう。

 江戸が東京と改称されたのは明治元年7月で、9月には元号が慶応から明治に替わって、一世一元制が敷かれました。東京における木戸の住居は番町(現在の靖国神社入口付近)にあり、若き日に彼が過ごした斎藤道場(「練兵館」)からは徒歩で2~3分のところでした。この時期、師匠の斎藤弥九郎とは再会して旧交を温めています。

 封建制の廃止・郡県制の設定に関して、木戸と思いを共にした同志に伊藤博文がいました。11月に姫路藩主・酒井忠邦が土地人民の奉還を願い出た際に、伊藤はこれを好機とみて、版籍奉還について全国諸藩が実施するべきであるとの意見書を提出しました。木戸にとっては貴重な協力者だったでしょう。木戸はすでに土佐藩の後藤象二郎にもこの問題について打ち明けていましたが、12月には土佐藩主・山内容堂公に招かれて、その屋敷を訪れています。容堂公とはすでに閏4月に初対面を済ませており、酒席で議論をするまでの親しい間柄になっていました。容堂公は木戸が説く版籍奉還についても賛同し、薩長2藩とともに行動を共にすることを約したのです。

 東北での戦争終結の報が伝わると、木戸は「もし版籍奉還が1月か2月に行われていれば、東北の戦乱はなく、惨害を被るものも少なかっただろうが、もはやその機を失してしまった」と嘆じ、これ以上の遅延は天下・後世のためにならないと、焦慮を募らせていきました。12月には再び岩倉にその実現を催促し、一方では大久保もこの時期には活発に画策しており、その効果があったのか、明治2年1月20日に長州、薩摩、土佐、肥前4藩主(毛利、島津、山内、鍋島)の連署による版籍奉還の建白がようやく提出され、23日に太政官日誌に発表されました(全文は本頁の最後に掲載)。その後、各藩もこれにならい、まず鳥取、佐土原、福井、熊本藩が、さらに大垣、松江、津、彦根藩もあとにつづき、5月3日までには262藩が同様の上表を提出しました。福井藩は郡県制度の採用も献言していましたが、ほとんどの藩はいずれ版籍はあらためて与えられるものと信じていたようです。

 実は上表の文面にそう誤解されるような表現が入っていたのです。版籍奉還の提唱には術策を用い、それが所領安堵の前提であるかのように説くほかなかった、とのちに木戸は述懐していますが、その苦労のほどが窺えます。木戸と大久保、薩長の協力なくしてその実現は不可能だったとも言えましょう。この時期、木戸は彼のよき理解者であった大村益次郎に充てた手紙で、
 「大義名分を正し、皇国一致の基礎を定め候愚論、昨春来、冥々に尽力仕り置候儀、漸くこの節少しく芽が出で候様子にあい察せられ、内々大悦仕り居申し候」 とその苦心が実ったことを喜び報じています。

 版籍奉還の上表
臣某等、頓首再拝、謹みて案ずるに、朝廷1日も失ふ可らざるものは、大体(国体)なり。1日も仮す可らざるものは、大権なり。天祖肇(はじめ)て国を開き、基を建たまひしより、皇統一系、万世無窮、普天率土(ふてんそっと)、其の有に非ざるはなく、其の臣に非ざるはなし、是大体とす。
且与へ、且奪ひ、爵禄以て下を維持し、尺土も私に有すること能はず、一民も私に攘(ぬす)むこと能はず、是れ大権とす。

在昔朝廷海内(かいだい)を統馭(とうぎょ)する一にこれにより、聖躬(せいきゅう)之を親らす。故に名実並び立ちて、天下無事なり。中葉以降、綱維(こうい)一たび弛び、権を弄し、柄を争ふ者、踵(きびす)を朝廷に接し、その民を私し、その土を攘(ぬす)むもの、天下に半し、遂に搏噬(はくぜい)攘奪の勢成り、朝廷守る所の体なく、とる所の権なくして、是れを制馭すること能はず。姦雄たがひに乗じ、弱の肉は強の食となり、その大なる者は十数州を併せ、その小なる者は猶士を養ふ数千。

所謂(いわゆる)幕府なる者の如きは、土地人民擅(ほしいまま)にその私する所に分ち、以てその勢権を扶植す。是においてか、朝廷徒(いたづら)に虚器を擁し、その視息を窺ひて、喜戚(きせき)をなすに至る。横流の極み、滔天(とうてん)回(めぐ)らざるもの、茲(ここ)に六百有余年。
然れどもその間往々天子の名爵を假りて、その土地人民を私するの跡を蔽う。これ固より君臣の大義上下の名分、万古不抜のもの有に由(よる)なり。
方今大政新たに復し、万機これを親らす。実に千載の一機、その名あって、その実なかる可らず。その実を挙るは大義を明らかにし、名分を正すより先なるはなし。

さきに徳川氏の起る、古家旧族天下に半ばす。依って家を興すもの、また多し。而してその土地人民これを朝廷に受ると否とを問はず、因襲の久しきを以て今日に至る。世或いはおもへらく是祖先鋒鏑(ほうてき)の経始する所と。ああ何ぞ兵を擁して官庫に入り、その貨を奪ひ、是死を犯して獲所のものと云うに異ならんや。庫に入るものは、人その賊たるを知る。土地人民を攘奪するに至っては、天下これを怪しまず、甚だしきかな名義の紊壊(びんかい)すること。

今也丕新(ひしん)の治を求む。宜しく大体の在る所、大権の繋がる所、毫も假べからず。抑(そもそも)臣等居る所は、即ち天子の土。臣等牧する所は、即ち天子の民なり。安(いづく)んぞ私有すべけんや。今慎みてその版籍を収めて之を上(たてまつ)る。願くは、朝廷その宜しきに処し、その与ふ可きは之を与へ、その奪ふ可きはこれを奪ひ、凡(およそ)列藩の封土、さらに宜しく勅命を下し、これを改め定むべし。而して制度・典型・軍旅の政より、戎服(じゅうふく)・器械の制に至るまで、悉(ことごと)く朝廷より出で、天下の事、大小となく皆一に帰せしむべし。然る後に名実相得、始て海外各国と並び立つべし。是れ朝廷今日の急務にして、また臣下の責なり。故に臣某等、不肖謭劣(せんれつ)を顧みず、敢て鄙衷(ひちゅう)を献ず。天日の明、幸に照臨を賜へ。 臣某等 誠恐誠惶 頓首再拝以表。

毛利宰相中将
島津少将
鍋島少将
山内少将

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用語解説: 普天率土 - 天のおおうかぎり、地のつづくかぎり。 爵禄 - 爵位と俸禄。
海内 - 国内、天下。 聖躬 - 天子の御身、玉体。 綱維 - 国家の法律。 虚器 - 名ばかりの地位。
滔天 - 天をしのぐこと、勢いの激しいこと。 方今 - ただ今。
鋒鏑 - ほこ先とやじり、武器。 経始 - 物事をし始めること。 戎服 - 軍服。 器械 - 道具、武器。
謭劣 - 才能が浅くて劣っていること。 鄙衷 - 鄙は謙遜語、衷は真心。
照臨 -君主が国土、人民を統治すること。

(註): 漢字をひらがなに直している箇所、送り仮名の処理をしている箇所があります。

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