木戸孝允への旅 91


維新編(明治2年)

● 大村益次郎暗殺の黒幕

 木戸の箱根滞在

 東京政府の現状には不満が多く、木戸は休暇療養前にも、賞典禄世襲への反対や蝦夷地開拓の督促など、意見を出し続けていました。出発の際には岩倉家より大橋慎三が訪ねてきて、東京に留まるように説得されましたが、木戸は中止できない事由を告げて断わりました。また、大隈重信が同行を申し出ていたのですが、大蔵大輔の任にある大隈を一緒に連れて行けるわけもなく、手紙を書いて、8月2日に一人で従者とともに箱根へと出発しました。

 箱根にあっても、広沢からの手紙、三条からは使者がやってきて「国家多難の際なので、速やかに帰京するように」との伝言を受けるなどして、ゆっくり休養できる状況ではありませんでしたが、すぐに帰京する気にもなれなかったので、もうしばらく箱根に留まることにしました。箱根滞在中には、大島正朝(友之允、対馬人)、英国人シュミット、のちにはミットホール、桂太郎、楢崎頼三などが訪れて、木戸と面会しています。シュミットは木戸の養子正二郎の英語教育を買って出て、木戸の承諾を得に来たのです。大島らとは周辺を散策し、山頂から鎌倉・江ノ島の眺望を楽しんだのち、この地では有名な奈良屋に泊まっています。

 9月10日になって、東京から河村謙蔵が槇村正直(京都府権大参事)と河田景興の手紙を持って、木戸を訪ねてきました。手紙を開いてみると、大村が京都木屋町の旅宿で刺客に襲われ重傷を負ったという報に木戸は驚愕しました。大村が一命をとりとめたことには安堵したものの、若党1名と客人2名が斬殺されており、実に憐れむべきこと、と木戸は槇村宛の返書に記しています。

 大村の京都・大阪出張については、もとより木戸は心配していました。大村の国民皆兵論は士族の特権を脅かすものとして、多くの武士たちの反感を買っていたからです。攘夷派が大村の暗殺を企てているという風評もあり、木戸は大村の身を気遣い、旅行の道筋を変更するように忠告していました。大村も用心して東海道を通らずに、甲州経由の木曽路を通って行ったのです。木戸はこうした外部の不穏分子ばかりでなく、薩摩出身の刑法官(実は海江田信義)にも警戒心を募らせていました。彰義隊討伐時に大村と対立した海江田は、同時期に京都弾正台大忠として京都に赴任していたのです。木戸は京都府権大参事・槇村正直に手紙を書き、海江田は信用できないから警戒を厳重にしてほしいと告げ、大村への手紙でも、京都刑法官の薩人について警戒するように促しました。

  大村益次郎、襲撃される

 大村が京都に着いたのは8月13日。出張の目的は大阪に陸海軍の兵学寮を創設することで、宿泊所は三条木屋町の長州藩控屋敷でした。翌日から活発に動きまわり、練兵場や各地の兵営を巡回し、大阪では兵学寮と鎮台の建設予定地を検分しました。この間にも暴徒が大村をつけ狙っているという密告があったので、天保山で海軍の根拠地を調査したあと、帰路の道を変えて淀川での乗船を避け、山崎・嵯峨の陸路を通って京都にもどりました。

 9月4日のこと、大村は二階の四畳半で静間彦太郎(長州藩大隊司令)と安達幸之助(英学教授)を相手に酒を酌み交わしながら歓談していました。一説によると、

夕方の6時ごろ、二人の男が訪ねてきて、萩原秋蔵と記した名刺を差しだし、「大村殿に面会したい」と取次の者に告げた。しかし、大村は来客中だったので、若党の山田善次郎が階下に降りて、「今晩は差支えがあるので、明日、兵部省へお越しください」と伝えた。相手は「いやぜひ今晩ご面談願いたいので、今一度その旨をお取次ぎください」と言い張るので、善次郎はやむなく引き返して、奥に入ろうとした。そのあとから二名の者(団伸二郎と金輪五郎)がヅカヅカと奥に踏み込み、山田に斬りつけた。さらに賊の一人が「大村は国賊だから討ち果たす。邪魔すると家来も討ち果たす」と叫びながら大村に向かって斬りかかった。山田は負傷しながらも、主人を守ろうとして素手で防いだので、大村は致命傷を免れた。

客としてその場に居合わせた安達は「賊だ!」と叫んで、東側の窓から加茂川の河原へとび降り、静間もこれに続いた。二人の賊が安達を大村と間違えてあとを追ったので、大村は浴室に入って、しばらく風呂の中に隠れていた。その後、騒ぎを知って駆けつけた人々に、大村は風呂蓋をあけて「皆さん、ご心配で有難うございました。私もしばらくサザエの真似をしました」と言って、意外に沈着として元気な様子で出てきた。

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 鴨 川
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        窓

賊の侵入路   
 
 この事件の結末ですが、安達と静間は団と金輪、さらに河原で待機していた賊の仲間によって斬殺され、深手を負っていた山田も翌朝に絶命。大村は額や膝など六箇所に傷を負い、最初は河原町の長州藩邸で治療を受けていましたが、膝の傷が重傷だったので、木戸の斡旋で蘭医ボードウィンの治療を受けるため大阪の病院に移りました。そこではシーボルトの娘伊弥(イネ)とその娘阿高が看護婦代わりになって大村の治療を助けました。
しかし、膝の傷に敗血症の症状があらわれ、すこぶる危険な状態になってきたので、切断のやむなきに至り、10月27日、ボードウィンにより右脚切断の手術が施されました。術後、一時は回復に向かっていたかと思われましたが、再び容態が悪化に転じ、11月4日には危篤状態に陥ります。翌5日、午後7時に大村益次郎死亡。享年46。
 大村は自己の死を予感していたようで、手帳には次のような詩歌が残されていました。自歌ではなく、文久3年に切腹して果てた長井雅楽の辞世の詩のようです(漢詩略)。

 今さらに何をかいはん 代々を経て 君のめぐみに報ふ身なれば
 君のためすつる生命は 惜しからで ただおもはるる国の行く末


(後篇「木戸の驚愕と慨嘆」につづく)


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