維新編(明治2年)
● 大村益次郎暗殺の黒幕(後篇)
木戸の驚愕と慨嘆
木戸が箱根から東京に戻ったのは9月26日で、途中の横浜には大村が関与した陸軍将校の養成所がありました。大村直系の学生たちは京都の大村襲撃事件を憤慨しており、周布(公平)や小倉(馬屋原二郎)などが切迫した状況を知らせに木戸を訪ねてきました。木戸は興奮する学生たちに自制を促しましたが、襲撃犯の黒幕については目星をつけており、強い憤りを感じていたのです。すでに彼は伊藤博文から、薩摩の海江田信義が大村の襲撃犯について公然と同情論を口にしていた、という報告を受けていました。
海江田は大姦物なり。大いにご用心。大村の一條も彼扇動と申す説これあり申し候。昨年来の私怨にて、己の非は知らず、却って大村を怨み、これまでも大村をおとし候姦謀をたびたびあい企て候由にて、土人(土佐人)などよりも、密かに気をつけ呉候こともこれあり申し候。
と彼は槇村正直宛(10月15日付)の手紙に書いています。さらに、広沢真臣宛の手紙でも、
大村一條につき候ては、海江田その扇動と申す内々説もこれあり申し候。かくのごとき事にては、朝廷の御不仁にあい当り、実に実に恐れ入り奉り候ことにてござ候。
と、海江田に対する疑惑に言及しています。大村宛には「なにとぞご全復、早々御東帰待ち奉り候」と、一日もはやく全快して、東京に戻ってくることをひたすら期待しており、大村が亡くなることなどまったく考えていなかったと思われます。
12月12日、夜11時ごろ、杉戸を叩く者があって出てみると、三宅庸助でした。山田市之允、船越洋之助、河田佐久馬からの書状を受け取り、開いてみると、大村が五日の夜ついに絶命したという通知でした。木戸は悲嘆のあまり涙も出ず、ただ気を失ったように呆然としていました。
木戸の伊藤宛の手紙でも「大村没去の報到来。力も落ち、勢御座なく候。痛惜限りなく、御降察下さるべく候」とあり、いかに落胆が大きかったかが窺い知れます。さらに、大久保への手紙でも「彼前途の御為を憂へ候心事、聊かもあい貫かず、私情においても愍然(びんぜん)に堪へ申さず候」とその無念の思いを告げています。大久保のほうは大村の災難については日記に記していますが、死亡についてはなにも記載がなく、それほど木戸に同情していたとは思われません。
木戸が大村と初めて会ったのは安政六年(1859)で、木戸27歳、大村36歳のときでした。当時、大村は村田蔵六といい、宇和島藩に招かれ、幕府の蕃書調書や講武所でも教えていました。その後、木戸が帰藩中に大村が訪ねてきて会談した際に、互いに認め合うところがあり、親交を深めていきました。その後の経緯については本「木戸旅」シリーズで既述したとおりです。木戸の大村への信頼はあつく、軍政においても、薩摩に対する牽制の面でも、将来の国策を決する上でも、誰よりも頼りにしており、それだけに、自らの右腕のごとき大村の死は彼個人の打撃であったばかりでなく、薩長の力関係にも少なからぬ影響を及ぼしたようです。
犯人処刑の顛末
大村の刺客は全部で8人(3人は攘夷派の長州人:団伸二郎、太田光太郎、神代直人)で、暗殺決行時には3組に分かれていました。事件後、神代は周防の海岸で割腹自殺を遂げており、団と太田は五十嵐伊織(越後府)、金輪五郎(久保田藩)とともに越前の福井で逮捕され、伊藤源助(白川藩)は京都の下宿で、関島金一郎は信州の郷里でそれぞれ捕縛されました。また、宮和田進(吉田藩)は大村襲撃時に吉富と斬り合って重傷を負ったので、二条河原で一味の一人に斬首されていました。
捕縛された6人の犯人は死罪となり、12月10日に粟田口刑場に引き出されましたが、京都弾正台出張所は公式の通知が届いていないので、「弾正台を経由しない刑の執行はこれを差し止める」という理由で犯人を獄舎へ戻してしまいました。弾正台大忠の海江田信義の指図であったことは間違いないでしょう。この処置については、さすがに大久保もまずいと思ったようです。海江田は
“大村暗殺の黒幕” と木戸ら長州人にみられており、海江田もそれを気にして、自分は暗殺に関与していない、という釈明の手紙を大久保に送っていました。しかし黒幕とみられている本人が刑の執行を止めさせたのでは、疑惑は益々深まってしまいます。
この件の事情について、以下「醒めた炎」(村松剛著)によると、
大久保としては薩長の再協力に、木戸を動かして乗り出して来た矢先である。海江田の行動をもしも彼が容認すれば、木戸派との決裂は決定的になる。
東京の岩倉もこれには驚いたと見え、海江田への喚問状(12月24日付)が28日に京都に届いた。
「糺問の筋これあり候につき、至急東京へ罷り出づべく候こと」
それでも海江田は死刑の執行に反対をとなえつづけ、弾正台の威信にかけても死刑を阻止せよと部下を督励した。海江田の部下で大巡察の古賀十郎などは、海江田自身の回想によると、
「眼をいからし肩をそびやかし、一座を睥睨せるその状、もっとも勇猛壮烈に見へたり」(『維新前後實歴史傳』)
古賀は京都の心学者の家に生まれ、青年期を九州の柳川ですごした。根っからの攘夷派であり、この翌年には乱を企てて斬に処せられる。
大村は奸賊、と信じこんでいたひとりであろう。しかし同じ28日の夜に東京の弾正台から正式な指示が到着し、海江田もこれを見ては、命に服さざるを得なかった。
大村襲撃の犯人たちは、翌29日に粟田口で斬首される。
大村暗殺を実行した犯人たちの動機については、各々の口述書が残されていますが、長州人・団伸二郎によると、
(前文略) 先年徳川氏外夷に親み、人気に反し候砌(みぎり)より、長州藩の義は尊王攘夷を主張し、人望を得、苦心尽力、終(つい)に王政復古の功を奏し候ところ、豈(あに)はからんや一新以来、国論表裏に変じ候は、全く外国人の説を信用の者、己れの説を主張し、就中(なかんずく)大村兵部大輔殿は、年来西洋学に沈み、終には皇国の皇国たる所以を知らず、万事外国に模擬し、彼風(かのふう)を慕ふのあまり、身に洋服を著し、邪教を主張し、皇国固有の道を廃し、世教を彼れ同様にせん事を企て、皇国の第一たる刀剣を廃するの説を唱ふる等、その他枚挙にたえず。
大村を誤解している面もありますが、団ら徹底攘夷によって皇国を護ろうとする者たちにとっては、攘夷から開国へと転じて新政府に仕える開明派の長州人は、“裏切者”であり、“国(長州)の恥”と捉えていたのでしょう。その心情にも同情の余地はあります。しかし、両者の思想のかい離はもはや埋めることのできない深い溝を刻むこととなり、やがては長州人同士があい戦う悲劇へと発展していくことになります。倒幕達成の原動力となった薩長同盟のもう一方の当事者、薩摩もまた同じ運命をたどることになるのです。
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