維新編(明治2年) ● 薩長の対立 ― 木戸 VS.大久保 神祇伯 中山忠能木戸は7月3日に参朝してこの改革には反対しましたが、止めることはできませんでした。どうやらこの改革は、大久保と岩倉があらかじめ相談のうえで決めたらしく、木戸派の牽制という思惑もあったようです。待詔院学士はいわば宮中の顧問官であり、政策を決定する権限は与えられていない閑職でした。大久保自らも木戸とともに待詔院に退けばバランスもとれ、木戸らによる急進的な改革を抑え込むことができると考えたのかもしれません。また、新政府内の王政復古派の勢力も侮りがたく、世間の不平、不満も高まっていたので、木戸、大久保を一時表舞台から遠ざけて、批判を鎮静化させる効果も期待したのでしょう。 改革派は、同じ長州人でも保守的な姿勢が目立つ前原を参議にしたことも含めて、この新官制には大いに不満を募らせていました。前原は大村のすすめる兵制改革に反対しており、木戸ともそりが合わなかったので、この人事にはびっくりしたようです。越後府判事がいきなり中央に呼び出され、副首相格の参議に任じられたのですから、これはなにかおかしいと感じたようで、病気と称して命を受けようとはしませんでした。前原には親しい部下も支持者もいなかったので、参議になっても孤立するほかなく、大久保が彼に目をつけたのも、腹心・副島と盟友・岩倉がいれば、自らは舞台裏に退いても、政策上の決定は自分の意のままになると思ったからなのでしょう。 前原が容易に出仕せず、木戸派の反発も大きいことから、事実上、一人参議になった副島は大いに当惑していました。彼は大久保と何度も話し合い、二人で岩倉を訪ねて相談もしましたが、大久保の反応は、「木戸の一派がどれほど不平を言おうとも、動揺してはいけない」という強気の説得でした。木戸はすでに「待詔院学士は受けられない」旨の手紙を書いて、大久保に送っていました。 待詔院学士という御沙汰をいただきましたが、文盲の私、いかに鉄面皮でも、天下にたいし学士の名目をもって安んじることなどとてもできません。漢土はどうか知りませんが、有名無実は日本においては省きたいものです。ついてはなにとぞ、このたびの恩命を幸いに帰耕いたしたく、近いうちに嘆願書を提出するつもりでおります。 さすがに木戸を帰国させるわけにはいかなかったので、大久保は岩倉と相談して、ただちに待詔院学士を待詔院出仕に改めました。このすばやい対応に、木戸も受けざるを得ませんでしたが、内心の不満はいっこうに晴れず、大久保への不信感を募らせていくのです。しかも、新官制をめぐるこのごたごたは政府内外に物議をかもし、木戸、大久保が要職を離れる不自然さについても、あれこれと取りざたされて、ほとんど政務も滞るほどの混乱を生じさせていました。幕末の小御所会議での対立以来、薩摩嫌いの山内容堂は7月9日をもって学校官知事を辞職し、後藤、板垣も土佐に帰国準備をはじめ、前原の参議就任は難しく、大隈も大蔵大輔を辞退するという状況のなか、世論紛々、諸官解体の様相を呈していたのです。 こうした思いがけない事態に、岩倉は危機感を募らせ、もはや木戸、大久保をともに参議に復職させる以外に、混乱を収める術はないと悟りました。微忠と思ったことは、かえって不忠となり、和合と思ったことも、不和の基になってしまった〜 このような容易ならぬ形勢に立ちいたり、上は至尊にたいし恐懼、下は天下の有志に向かって慙愧に堪えない、と岩倉は三条宛の手紙(18日付)で苦衷を明かし、木戸と大久保を参議にもどさなければ無事には収まらないだろうから、両氏に再勤を仰せつけられるよう、心からお願い申し上げる、朝令暮改の責任は自分が負い、天下に謝罪して身を処するつもりである、と悲壮な決意を述べています。 岩倉は責任を負って出仕を控え、三条が大久保を説得しました。大久保は固辞したうえで、前原の代わりに広沢の参議就任を条件に受けてもよい旨を伝えました。木戸は三条、岩倉の説得にもかかわらず、ついに首を縦にふることはなく、逆に病気療養を理由に休暇を願い出たのです。結局、7月23日に大久保は広沢とともに参議の宣下をうけ、岩倉も24日に出仕して、新体制が発足しました。大久保、広沢、副島の三参議と三条、岩倉、徳大寺は国事について話し合い、機密を漏らさないこと、大事件は三職で熟議し、事柄によっては諸省の卿輔弁官または集議院へ諮問を経たうえで上奏宸裁を仰ぐこと、決定した事項については異論が起こっても動揺せず、一致協力して職責を果たすこと、互に連絡を密にして親交を深め、公務の便を計ることなどについて、誓約を交わしました。 こうして今回の木戸・大久保が対立し、政権の瓦解を招きかねなかった政変劇はなんとか乗り越えましたが、中央政府をめぐる周囲の状況はすこしも好転しておらず、外国との軋轢、攘夷派の暗躍、庶民の不安、不平に加えて島津、西郷が留まる薩摩の動静にも気を配らなければならず、新政権はなお脆弱な基盤のうえにかろうじて立っている状況でした。 26日、番町の木戸邸に三条公から使いが来て、朝廷からの病気見舞いとして、金三百両と銘酒一箱、生肴一籠が届けられました。その後、木戸は箱根に去り、しばらく湯治に専念することになりました。 「待詔院学士をめぐる騒動」の関連記事 「木戸孝允をめぐる人々 ― 岩倉具視と木戸孝允」 |