維新編(明治2〜3年)
● 諸隊叛乱 ― 帰藩した木戸に迫る危機!
木戸が箱根から東京に戻ったのは9月26日。しかし、政府内外の状況はいっこうに好転しませんでした。大村の死亡後は、薩摩の黒田清隆と川村純義が兵部大丞に任命され、大村派の山田顕義(大丞・長州)や船越衛(権大丞・広島)と対立するようになり、また前原一誠(長州)が兵部大輔に就任してからは、ほとんど兵制改革は進まなくなっていました。これらはすべて改革に消極的だった大久保の工作だったことは木戸もわかっており、京都・弾正台(薩摩派)が大村襲撃犯を擁護したこともあって、彼は不満を募らせ、方々からの復職の要請にも応じませんでした。
政府・官吏は世論を窺って容易に事を成さず、ただその地位に甘んじて目的もたてず、ひたすら防御の策を講じるばかりになっていることにも、木戸は深く失望していました。しかも、戊辰戦争の終結後は各藩の軍隊も朝廷をはなれて帰国し、朝命は軽んぜられてしまっている。朝廷と長州・薩摩との間も意思疎通を欠き、藩論も一致しない状況下では、改革を進める勢力も形成できない。このような情勢で政府に復帰しても、やれることはほとんどないという思いから、木戸は復職をためらっていたのですが、朝権を強固にする手段を講じなければならない、という気持は募っていました。
木戸と同様、大久保にも現状に対する危機意識がありました。いま薩長二藩が一致協力しなければ、この不安定な政情から脱却できないことは明らかでした。彼は木戸と共に東京を発って山口に赴き、さらに鹿児島に帰って島津、西郷を説得して協力を取りつけなければならないと考え、12月3日の夜、木戸邸を訪ねたのです。木戸もそれは望むところでした。久しぶりに酒を酌み交わしながら、現状打開のために今後の方策を論じ合いました。木戸を伴っての帰藩については、大久保はすでに岩倉、三条に相談して内諾を得ていたのです。
12月19日、木戸と大久保は横浜から米国汽船「オーガニヤ号」に搭乗して神戸に向かいました。他には井上馨、黒田清隆、杉孫七郎、品川弥二郎が同船。21日、神戸港に到着後、大久保とはいったん別れて、木戸らは海路、大阪に向かいます。大阪での宿所は広戸甚助の家で、幕末の一時期、木戸が出石に潜伏中に世話になったのがこの甚助でした。木戸はそのお礼に商売の資金を彼に提供し、当時の木戸の変名「広江屋孝助」も名乗りの請いを受け入れて与えました。今では苦しくも懐かしい思い出を、二人は夜遅くまで語り合ったのでしょうか。
一方、大久保は旅程を変えて、京都に立ち寄っていました。大村襲撃犯の死刑執行がまだ行われていなかったからです。彼が個人的に生前の大村を煙たく思っていたとしても、京都弾正台が太政官の命に背くことを認めるわけにはいきませんでした。薩長の協力について木戸と同意して動き出した矢先ですから、相手の不信感を募らせる事態はなんとしても避けたく、大久保は死刑執行に反対する弾正台大忠・海江田信義に会って説得したのです。京都にはまだ反動勢力が跋扈しており、東京遷都に対する反感もあって、東京政府にとっては決して好もしい情勢ではありませんでした。
襲撃犯の処刑については、大久保の粘り強い説得もあり、東京弾正台からの指令が届くのを待って体裁を整え、29日、ようやく執行されたのです。
12月27日、木戸ら一行は三田尻に到着しました。梅屋で休憩していたときに、野村靖之助と三好軍太郎(常備軍・監軍)がやってきました。藩では諸隊の兵を再編して、新政府の親兵とする計画が実行されようとしていました。幕末から肥大化した兵力を維持する財力が藩にはなく、諸隊から精選した2千の兵を常備軍として残し、親兵にする予定だったのですが、選にもれて不満をいだく者たちが脱隊して宮市に屯集、ここを本陣として砲台を築き、藩庁を威嚇するまでになっていたのです。
浪花において聞くところと大いに齟齬(そご)し、驚愕、痛嘆に堪えず。今日にいたり、御国内かくのごとくの騒擾を生ず。何の面目あって四方の人に対すべきや。
木戸はそう日記に記していますが、その驚き、動揺、憤激、羞恥の念がその文面から容易に察せられます。翌日にはさらに多くの者が彼の宿を訪ねて、現状を嘆き不安を訴えますが、冷静な対策を提示する者はひとりもいませんでした。この日、木戸は品川弥二郎を伴って山口に入り、毛利敬親・元徳父子に面会しました。
そもそもこの騒動の萌芽は、藩庁が親兵を編成する際に、奇兵、遊撃、整武、振武、鋭武、健武諸隊を合併して新たに常備軍を編成する時に生じていました。戦功の優劣を評価して、その貢献度に合わせて褒賞することになったのですが、その趣意が徹底されずに不公平感があり、とくに遊撃隊中に不満が多く残ったのです。しかも優秀な人材を東京に取られて、指導層にしっかりした人物がいなかったことから、11月14日、遊撃隊の幹部4人が連署して上官を弾劾する書を軍事局に提出する事態となりました。
蓋(けだ)し要は、上官その人を得ざるが為に、軍規大いに弛解してほとんど緩急の用をなさず。而して未だこれら隊中の積弊を洗除せずして俄(にわか)に之を他隊に併合せんとするを不可となし、別に長官の罪状を列挙して、まず之が処罰を請うに在り。(「松菊木戸公伝」)
しかし、軍事局は要求には応じず、遊撃隊を除く諸隊から兵を選んで常備軍四個大隊を編成し、従来の隊号を廃止してしまったのです。これに憤激した遊撃隊員は12月1日、再び上書して、隊の長官と藩庁役人の罷免を要求。さらに恩賞も得られずに、藩庁の処分に不満を持っていた除隊者も、山口を脱して三田尻にはしる者が続出し、3日には遊撃隊に他の諸隊の兵も加わったおよそ2千人が宮市に屯集して藩内に18の砲台を築き、藩政府と対立するまでに事態が悪化してしまいました。彼らは断髪・脱刀にも反対して、大村益次郎の墓を襲うなど、上司への不満や除隊問題を超える思想性を強めていったのです。
木戸の悩ましさは、萩地の人士がいまだに諸隊の形勢を傍観して、藩庁の命に従う気配がなかったことにも原因がありました。清末藩をはじめとする支藩の知事たちが集まり、その鎮撫の策を協議しても、積極的に指揮しようとする者がいませんでした。木戸は「毛利父子以下、支藩知事は一致協力し、条理に基づいて諸隊を懇諭しなければならない。これに恭順せずに暴挙の態度に出るならば、もはや天下の罪人なので、断然たる処置をなすほかない」との意見を述べました。彼は正月3日に山口政庁の要路の一人、宍戸環にもその趣意を手紙で知らせました。
井上馨などは、諸隊の機先を制して萩市の人士を糾合、奮起させて、叛乱兵を鎮圧するべきだという強硬論を主張していましたが、木戸はあくまでも平和解決の道をさぐることが先であるとして、井上の計画を中止させました。しかしながら、最悪の事態も想定しなければならず、彼は在京の広沢真臣に手紙で藩地の事情を伝えて協力を求めたのです。騒動が大きくなれば、中央政府をも揺るがしかねないという危機感を抱き、「まず東京の常備軍の管理を徹底すること、大巡察使などを送られてはまったく困るので、うまく取り計らってほしい」と述べています。木戸は「今日の弾正は国是の敵方」だとして警戒していました。
さらに彼は適当な人物を指名して、支藩知事との交渉、藩知事父子の旨趣周知、諸隊間の周旋などをさせ、藩政の乱れについても憂慮して、「賞典禄の給与すべきは速やかに決行し、諸郡吏員以下大庄屋に至るまで、民望を失へるものは悉く罷免する」など、手紙で参政・木梨信一に忠告もしました。しかし会議においては、皆あれこれと気遣いをして躊躇することが多く、大事なこともなかなか決定されるまでには至りませんでした。
藩政府はすでに叛乱軍の要求を考慮して、不人気の上官数名を罷免・謹慎させて人事を改め、その後に各々旧営に帰るように説得する書を諸隊の幹部に送っていました。軍規違反者に対して相当寛大な処置を採っていたと言えるでしょう。しかし脱隊兵たちは藩庁にまで乗り込み、現官吏を処罰し、推薦の人物を登用するように要求、また常備軍の解散、馬関周辺にいた第四大隊の召還をも求め、その態度は益々傲慢に傾いていました。諸隊の強訴の勢いはおさまる気配もなく、たのみの干城隊(正規軍で萩に駐留)は因循の態度で傍観するばかり。ここに至って藩側は兵力の確保が焦眉の急と察して、あらかじめ朝廷の認許を得るため、井上がひそかに山口を発って東京に向かいました。東京には藩兵の第五大隊が駐留していたからです。
1月20日頃から諸隊の動きが活発になり、26日、干城隊の動きを怪しんだ脱隊兵が御警衛と称して公館の周囲に集まってきました。政事堂はこれに解散を命じますが応ぜず、ついに彼らは関門を閉じて藩庁を包囲し、食物の通路までも絶ってしまいました。その頃、木戸は藩庁の呼び出しに応じて登庁する途上でした。偶然、通りかかった人が、元徳公の居館が諸隊に包囲されて、すでに通路が遮断されていることを木戸に告げました。この報せに気がはやった木戸は様子を知ろうと、さらに進んで新道のほうに向かいます。すると、向こうからひとりの老人が走ってきて、田んぼの陰に伏せ、
「来てはいけません、旦那様。これは藩庁からの密命です」
血相変えて木戸を引き止めたのは、厨房で働いている者でした。
「兇徒が旦那様の居場所を探っており、お命が危のうございます。このままお逃げになってください」
老人の忠実な行動によって、木戸は危機一髪、難を逃れました。もはや一地方の叛乱ではなく、中央政府に対する叛乱と見るほかなく、帰宅すると、彼はただちに岩国、徳山の支藩士たちと連絡をとりました。夜半には家を出て、間道伝いに大庄屋・吉富藤兵衛の屋敷に至りましたが、その後、家から使いの者が、諸隊が木戸を必死に探しまわっているという危険を告げに来ました。もはや常備軍のいる馬関に逃れるほかないと決すると、翌日、木戸は変装して、吉富など3名を従え、さらに農夫3人を案内役にして、日が落ちてから山口を脱します。風雨の中、農夫もいく度か道に迷い、ぬかるんだ悪路を進むうちには荊で手足が傷つき血がにじむなど、散々な逃避行でしたが、なんとか無事、山道を越えて小郡に達しました。
海路、馬関(下関)には29日に到着。すでに佐藤興三右衛門(鳳翔丸艦長)が迎えに来ており、連れ立って入江和作の奈良屋に入りました。木戸到着の知らせを聞いて、すぐに長府から野村靖之助と三好軍太郎が駆けつけてきました。他の者たちも相次いで訪れ、奈良屋はさながら軍司令部のようになり、今後の行動についての意見が交わされました。頑固な脱隊兵を懐柔する方策はすでに尽き、この上は断固たる処置を講ずるよりほかなく、討伐軍を整える必要に迫られました。
その後、木戸が馬関で掌握し得た兵力は常備軍300人と第四大隊250人、それに大阪の兵学寮から到着した兵80人、上関の援兵100人、宇部の兵一隊で、これらの兵力は2月8日に馬関から出帆、午後には小郡に上陸しました。兜、陶、箕越の各峠に分屯し、木戸隊は芹島の大道寺を本営としました。先に使者を派遣して、東西呼応しての挙兵に決していた岩国・徳山の支藩もすでに戦闘態勢を整え、三田尻近くの富海(とのみ)まで出兵していました。 図らずも総司令官となった木戸は、藩内の騒乱を迅速に鎮めなければ全国に波及しかねないことを、もっとも恐れていました。
2月9日の払暁、末田沖で丁卯艦(236トン)が発砲、徳山・岩国軍が戦闘を開始しました。小郡周辺では木戸隊が優勢に戦い、陶にいた遊撃脱隊兵は一戦も交えることなく逃亡してしまいました。しかし、舟木の賊兵が突然現れて、木戸隊を急襲、手元に100人ばかりの兵しかいなかったうえに、宇部の兵が約束に違反して一向に現れなかったので、木戸隊は苦戦に陥りました。
|