木戸孝允への旅 94


維新編(明治2〜3年)

● 西郷隆盛、突然の山口来訪(続・諸隊叛乱)

 四方を敵に囲まれて防戦すれば、兵力の損失は免れがたく、ひとまずこの場を脱することに決し、木戸は疲弊した部隊をまとめて三田尻をめざしました。三田尻はすでに徳山・岩国などの藩兵が制圧しており、木戸軍はここでようやく味方に合流。「今日の苦難語りつくすべからず」と彼は日記にその苦戦の状況を記しています。

 2月9日に藩知事・毛利元徳は兇徒親征の号令を発し、朝廷へも、やむを得ず断然たる処置に出る旨を上奏しました。藩庁と脱退兵とが対立を強めているさ中、薩摩から西郷隆盛が中関に着艦したという報が木戸の耳に入ってきました。突然のことに驚き、よく聞くと、兵隊を伴わず6〜7人で来ているとのこと。
「調停にきたのではないか?」
 木戸は疑い、当惑します。この期に及んで調停などされては、山口藩の綱紀は全く崩れて、政庁の威信は地に堕ちてしまう、と思ったからです。

 「今日にあたり、万一周旋により正邪を判ぜずば、ついに国家維持の目的毫もこれなく、余の苦心もっともはなはだし」(木戸日記)

 その後、戦況は征討軍に有利に展開し、木戸は西郷に会うために中関に向います。
 鹿児島に山口の諸隊叛乱を報せたのは、当時留学生として山口に滞在していた薩摩藩士・横山正太郎と岸良眞吉郎でした。諸隊が藩庁を包囲したのを見て、二人は山口を脱して薩摩にもどり、その事情を大久保や桂久武らに告げました。彼らは島津父子に謁して協議し、「傍観していては信義が立たない」として援兵を送ることに決しました。しかし、まず状況を視察したほうがよかろう、ということで、西郷が村田新八、中村半次郎らを随えて、2月6日に鹿児島を発して山口に向かったのです。
 西郷と面会して来訪の事情を知った木戸は安堵し、その配慮に謝意を表しました。

 西郷が山口で毛利元徳に対面してから帰藩する14日までには、叛乱軍はほぼ鎮圧され、井上が東京から第五大隊を連れて山口にもどってきたときには、もはやその兵力も使う必要がありませんでした。一方、土佐藩はこの叛乱で長州藩が没落することを期待し、板垣退助などは四国諸藩の結集を画策し、薩長に衝突あれば土佐が勢力を強める好機とみたようです。実際、藩主・山内豊範は小南五郎、谷干城らを率いて鹿児島を訪れ、藩主・島津忠義と面会しています。土薩同盟でも夢見たのかもしれませんが、薩摩のほうも突然の来訪に疑惑して、適当にあしらって帰したようです。

 大納言・徳大寺實則が宣撫使として山口を訪れた時、叛兵はすでに全員が明倫館に収容されていました。この叛乱軍の討伐戦における死者は、山口、徳山、岩国藩あわせて計20人、負傷者64人、叛乱兵およそ1800人のうち死者60人、負傷者73人で、戦後処理により死罪となった者は30数人いましたが、農商出身者1300人は帰郷を許され、さらに、過去に功労があった者600人に対しては扶持米1人半分ずつが支給されました。

 こうして騒動が長引かずに済んだのは、たまたま帰藩していた木戸の決断で征討軍が組織され、陣頭指揮に当たったことが幸いしたと思われます。長州藩は他藩からの干渉をなによりも恐れていたので、自力で危機を乗り越えられたことの意義は大きく、新政府内外の新たな騒乱の芽をつぶすことになったとも言えます。一方、今回の長州藩騒動を、飛躍の好機とみていた土佐藩など他藩出身者は、無事に平定されたことを、かえって残念に思ったかもしれません。

 大久保のほうですが、彼は1月19日に鹿児島に到着し、すぐに知藩事・島津忠義と久光の邸に赴いて帰藩の理由を告げました。大久保の使命は久光を上京させることでしたが、その説得は容易ではありませんでした。桂久武(元家老)など藩の要路も大久保と同じ意見で彼に協力しましたが、事は思うように運びません。家臣どもがうるさいので、久光は「病じゃ。病なので上京するのは無理じゃ」とつっぱね、その頑固さには彼らも手を焼き、これはもう延期するほかない、ということになりました。

 しかし、大久保は諦めきれず、久光・忠義父子に改めて拝謁し、「ご快気なさってからでも一向に構いませんので、是非ご上京なされることをお考えいただければ」等と、誠意を尽くして進言すると、さすがに病を口実にしている後ろめたさからか、その時は島津父子も異論を差し控え、黙って聞いていたようです。だが、その後も大久保がしつこく説得を続けるので、ついに久光は怒りだし、胸にたまっていた不満をぶちまけたのです。

 すなわち、新政府が門閥や階級制度を廃したこと、「藩主」改め「藩知事」としたことはけしからん。これは封建制を廃して郡県制に変えることではないか。そんなことをしたら、諸藩の不平士族や巷の浪人は全国で蜂起して、天下は騒乱のるつぼと化す。たとえ予が招命に応じても、根本を改めないかぎり無用である、と。
 久光はまた、戊辰の役で勝利に驕った将士たちが過激な改革派となり、自らの脚下さえ不穏な情勢になってきていることにも苛立ち、こうした状況を西郷が制止するどころか扇動しているとみて、西郷に対する反感も募らせていました。これでは西郷が藩を離れることも、統率がきかなくなることから危険であり、さすがの大久保も、もはやこれまでと、久光の説得を諦めるよりほかありませんでした。

 大久保は木戸に手紙で、長州の騒動が早々に鎮定されて安心したこと、久光上京については病を理由にすぐには実現しがたいことを告げました。大久保の苦しい胸のうちが察せられます。こうして薩長両藩が協力して新政府を強化するという、当初の目的は達することができず、木戸も大久保も、当分は自分たちの力で新政府を支えてゆく覚悟を固めなければなりませんでした。


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