維新編(明治3年)
● 木戸と大久保、民・蔵分離で再び対立
前年12月に島津忠義が三田尻に寄港した際の約束により、毛利元徳は4月下旬、木戸を伴って鹿児島を訪れました。西郷、大山が木戸の宿所を訪ねて、過去の話しや時事を談じ、木戸は元徳とともに饗応を受け、製鉄場や機織場にも案内されて、その隆盛に感心しています。5月6日には鹿児島を発って帰藩の途につき、薩長両藩の良好な関係を保つ役割を無事果たし終えました。
しかし、舞台を東京に移せば、薩長を代表する木戸と大久保の関係は、円滑というわけにはいきませんでした。6月2日に東京に戻ってからの木戸は、岩倉、大久保らの再三にわたる参議復帰の要請にも応じなかったのですが、最後には受け入れざるを得なくなりました。すでに木戸は支那・朝鮮使節に任じられており、彼の関心はもっぱらこの外交にありました。とくに朝鮮問題は幕末以来の懸案事項であり、なかなか開国に応じない朝鮮には自ら使節として訪れ、なんとか突破口を開こうという意欲を持っていたのです。朝鮮に近い対馬藩と毛利氏が縁戚関係にあったことから、これまで木戸は対馬藩とは特別に深いかかわりを持ってきました(「幕末篇」参照)。朝鮮問題に関しては、同藩士・大島友之允と何度も会談を行って情報も入手してきており、これ以上朝鮮がかたくなな態度を貫けば、強硬手段も辞さずという気持ちにもなっていました(註1)。
この使節を正式に欽差使節(天皇の命による使節)とするためには参議にならなければならない、と言われて、木戸はやむなく参議に復職することを受け入れたのです。ところがその直後に、清国で起こった天津事件(註2)の報が伝わり、事情が一変。とても使節を送る状況ではなく、朝鮮問題の着手についても当分は見合わせることになりました。では、その間に洋行したい、と木戸は幕末以来の念願を果たすことを考えました。その思いは俄かに強くなり、彼はさっそく伊藤と広沢に手紙を書いてその意志を告げ、自分の洋行の希望がかなうように尽力を請うたのです。木戸は大久保が異論を唱えるのではないか、と懸念していました。
案の定、大久保は三条公からその話を聞き、即反対の意思を表しました。この多事多難な折に、洋行させろ、とはなんという勝手な奴だ、と彼は思ったのでしょう。「それなら木戸を日本に留めて、おれのほうが洋行したいわ」という皮肉じみた思いを、実際、大久保は岩倉宛の手紙で表現しています。
――これは重大事で十分に念を入れて挙行すべきことだが、木戸はなにを考えているのか。
「且つ政府の処も、だんだん御多事の折に候あいだ、願くは小生にても御遣い下され候えば、仕合にござ候」
ひとたび大久保が反対すれば、もはや実現する見込みはなく、木戸も洋行を断念せざるを得ませんでした。その後に、大隈を参議に推薦して容れられなかったこともあり、なかなか自分の意のままにならない現状に、彼は不満を募らせていきました。この時期には、民部・大蔵両省の長として隠然たる勢力をふるっていた大隈重信に対して、これを快く思っていない者たちが排斥運動を起こしていました。財政・外交に長け、外国公使とも対等に渡り合える大隈は、当然、新政府でも重要な地位を占めるに至り、彼の能力をより発揮させるために参議に推薦したのは木戸、三条であり、これに反対したのは大久保、それに長州藩出身の広沢でした。
大久保は急進改革派である大隈の突出を抑制したかったようです。同じ参議の副島(佐賀藩)は大隈とは同郷でしたが、大久保に近く、反対派の一人でした。この当時、大隈は租税、土木、鉱山、鉄道、通商などの政策を一手に握り、築地にある大隈の邸宅には配下の伊藤、井上、五代友厚(薩摩藩)をはじめ、旧幕臣や地方の郷士、医師、僧侶など様々な人物が集まって勢威をふるっていたため築地の『梁山泊』(註3)とも称され、こうした状況を大久保は危険視していました。
6月22日、大久保、副島、広沢、佐々木の四参議がこの問題について、自らの職を賭して三条・岩倉に訴え、決着を促したのです。すなわち、我々の政見と大隈らのそれとは相容れない。従って、政府の方針を一定させるためには、いずれかを主とするしかないので、大隈らをとるか、我々をとるか決めてもらいたい。大隈らを主として選ぶならば、我々は職を辞する覚悟である、と。
大久保ら参議一同が進退をかけて決断を迫ったことで、三条、岩倉は慌てふためき、当件について三条が木戸に知らせました。大隈の排斥運動が起っていることなど、まったく知らなかった木戸は驚愕しました。
大隈のように有能な者は、同時に気質も際立っているが、よく難を凌ぎ、外交手腕にも長け、功績も少なくない。政府が体なら、諸省は枝葉である。その体にある者が枝葉と争っては、外に対してみっともなく、政府の軽さを表すようなものだ――と木戸は慨嘆しました。その後、彼は大久保を説得しようと、その私邸を訪ねています。しかし、話し合いはうまくいかず、大久保の態度は頑なでした。副島が裏で画策したのではないか? 木戸はいつも副島が大久保寄りであることから、あらぬ疑いをかけましたが、副島は大久保をそそのかすような姦物ではなかったでしょう。
木戸以外の参議がそろって反大隈で結束しているのですから、木戸としてもどもうしようなく、とくに同郷の広沢が反対派に加わっていることが彼には衝撃だったのです。広沢は大隈が主導権を握って大方の政策を決定していく過程で、自分の意見が通らなかったのか、大隈一派を横暴とみて相当に反感を抱いていたようです。大隈を参議にすれば、大久保ら四参議が辞職となれば、もはや実行しがたい。木戸も諦めるよりほかありませんでした。
こうした両者の軋轢を憂慮した岩倉、三条が民・蔵分離の妥協案を提示し、この案は29日の廟議で決定されました。両省の分離については前年から争点になっていたのですが、大隈を伊藤、井上などの長州人が支えており、彼らの総帥として木戸が控えていたので、なかなか扱いが難しかったのです。今回は4参議が結束しており、分離については大久保の思惑もあったようです。人事に関しては彼が岩倉と相談して、大隈を大蔵大輔専任とすることに決めました。しかし、大隈がこれを素直に受け入れるかどうか、かえってすべての職を辞して下野するのではないか、という懸念がありました。大隈を慰留できるのは木戸しかいない、と思った大久保は、木戸邸を訪れて大隈を説得してほしいと頼んだのです。
大隈もこれ以上の抵抗は身の破滅になると思ったのでしょうか。木戸の説得を受け入れ、改革派が騒ぎ出すような事態になることは避けられました。その後、民部大輔に決まっていた大木喬任が辞退を申し入れるなど、多少のごたごたがありましたが、岩倉、大久保、広沢が民部省の御用掛になることで最終的には受諾して、7月10日、民・蔵分離の件はようやく決着をみるに至りました。
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(註1) 維新初期における木戸の「征韓論」については、小説「明治六年秋」の「征韓論その2」後半部に詳述しています。
(註2) 天津事件 − 明治3年(1870)、清国でフランスのカトリック教会に対して反感を募らせた清国人が天主堂に集まり、仏領事フォンタニエと副領事を殺害、大伽藍を焼き払った。他に10人の修道女、2人の神父を含む6人のフランス人、3人のロシア人が犠牲になった。教会に付属する孤児院に孤児を集めるため報奨金を設けたところ、金目当てに人さらいが横行。重病の子供も受け入れ、洗礼をほどこしたうえで死後、協会の墓地に埋葬すれば信者数が増すので、成績を上げるために瀕死の子供までさらって、魔術の材料に使っているという噂が天津周辺に広まった。アヘン戦争以来の白人への憎悪が爆発した結果か、21人の犠牲者のうち、遺体が引き裂かれていなかったのは1名だけだったという。
(註3) 梁山泊(りょうざんぱく) − 中国、山東省西部の梁山の麓にあった沼沢。宋代、宋江ら108人の豪傑が集まって活躍したという『水滸伝』の故事に基づき、一般に豪傑や野心家の集まる場所をいう。
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