木戸孝允への旅 97


維新編(明治4年)

● 広沢真臣暗殺事件

 広沢暗殺の報は木戸ら一行を驚愕させました。のちの木戸日記によると、神戸に着くとすぐに長門屋から広沢遭難のことを告げられ、「余ら驚愕悲憤、暫(しばらく)言語を絶せり。(略)王政一新の際、ただ広沢の一人政府上に、余を助くるものあり。今日のことを聴き、実に兄弟の難に逢ふといえども、かくの如くの悼悟(とうご)如何と思ふ」(1月22日)

 木戸の悲嘆と動揺の様子が伝わってくるようです。以後、木戸、大久保には兵部省から護衛の兵がつけられました。明治新政府の要人暗殺は横井小楠(明治2年正月に襲われ、即死)、大村益次郎(明治2年9月に襲われ、11月死亡)につづいて広沢が3人目で、惨事は明治4年1月9日に東京麹町の私邸で起こりました。隣には木戸孝允邸、同じ長州人の宍戸環(刑部少輔)邸があり、広沢は木戸の留守中、夫人の松子を気遣って度たび訪ねていました。
 この事件の状況について、いくつかの記録をつなぎ合わせると、以下のとおりになります。

 1月9日の明け方、何者かが広沢参議邸に忍び込み、就寝中の広沢を襲って深手を負わせ逃走した。同人の創は12か所(15か所とも)におよび、寝所のふすま戸が1枚開け放たれていた。室外には足袋、素足、麻裏の足跡が多数あり、隣家の宍戸邸および木戸邸との境の板塀には泥の足跡があり、縁側には血の足跡があった。隣室の障子には寝所の様子を窺ったのか、2か所に数個の孔があけられていた。
 当夜は愛妾の福井かねが同床しており、彼女も右こめかみに切創を負った。かねは熟睡中、この創を受けてとび起き、賊を目撃した。その瞬間、恐怖のために卒倒し半醒半睡の状態に陥った。その間に大惨劇を演じ終えた犯人は逃げ去り、その後、意識を取りもどしたかねが一間へだてた女中部屋までたどり着き、女中を呼び起こしたので、家内の大騒動となった。
 暗殺された広沢の大きな切創は右耳より鼻までにわたり、これが初太刀、喉のたて創がとどめの一撃かと思われる。喉には他に二か所に創があり、刺客は複数の可能性あり。かねの創は、広沢を襲った刀の切っ先が彼女のこめかみに触れたものと推測される。

 
事件後の探索については、

 諸官員、宮、華族、家人陪従の者、並びに藩県士族および私塾生徒、その他末々まで一々吟味をつくし、昨夜より外出の者、刻限、行先など委細問い糺し、早々に申し出るべし。万一隠して、後日露見した際には主宰人の過失となるべし。

 との通達が出されましたが、政府による手配、必死の捜索にも関わらず、犯人を挙げるまでには至りませんでした。なお、嫌疑をかけられたものは複数人おり、一人は広沢惨劇の際に同床していた福井かねでした。彼女と執事の起田正一は密通する間柄で、起田は主家の金を着服していたことから共謀者とみられ、二人は厳しい取り調べを受けました。かねは相当な美人でしたが、すこし知能が弱かったらしく、供述があいまいで時々に変化し、なかなか要領を得なかったことから、真相の究明は困難をきわめました。両人とその関係者に対する追及は足掛け5年にわたり、悲惨な状況に置かれましたが、明治8年7月になって全員の無罪が確定され、ようやく解放されました。
 
 別の嫌疑者では政治的動機をもつ者として、宮内大丞小河一敏(おごうかずとし。岡藩士)、外務大丞丸山作楽(まるやまさくら。島原藩出身)、雲井龍雄一派の残党などが取りざたされていました。小河が鳥取藩の預かりとなったのは、大久保の私怨によるという説、丸山は樺太問題で広沢と意見が対立して腹いせに遣った、等など憶測の域を出ず、いずれも事件の関与が認められるまでには至りませんでした。
 他には米田虎雄(肥後人。宮内省出仕)の名も挙がっていましたが、長沼東夫(弾正台小巡察長)によると、米田への嫌疑は福井かねの話が根拠となっていたようです。すなわち、「何者かが座敷の雨戸をあけて忍び入り、刀をふるって参議を惨殺した。その物音に驚いて目を覚ますと、窃盗だと思い、金銭が入用ならわたします、というと、金はいらない、と言って立ち去った。彼は頭巾で顔を覆っていたが、言葉は肥後人で、米田虎雄に似ていた(略)」

 彼女の話には矛盾が多く、米田についてもまったくの思い違いだったことが、のちに明らかになっています。このように浮説、流言が飛び交っている中に、「広沢遭難の背後に木戸孝允あり」との説も挙がっていました。同藩の前原一誠も、「刺客を放ったのは木戸であり、自分も同日に刺客に襲われた」と語っていたようです。前原と木戸は性格も異なり、意見も合わないことが多く、木戸を誤解して逆恨みするところがあったので、そうした邪推も生じたのかもしれません。しかし、木戸と広沢は、前原のように、政治的に反する立場になく、むしろ互いに補い合っているような仲でした。性格、政見の異なるところはありましたが、広沢の存在は木戸の政府内における責任の負担を軽減してもいたのです。

 長州派内の権力争いとみるにしても、相手を排斥する理由が見当たりません。木戸は大久保と比べても権力への執着心が薄弱で、性格的にも政争の渦中から逃れる傾向がみられます。すこし前に歯を9本も抜き、「自分の余命はあと十年ももたないだろう」と弱気な発言をして、要職に就くことにもなかなか応じなかった男です。それに当時、木戸は廟堂に留まるよりも、海外に行くことを強く希望していたので、彼の代理を務められる広沢の横死は感情の面だけでなく、行動上においてもさぞ喪失感が大きかったことでしょう。こののち木戸は、幕末期の同志であり、維新後においても貴重な相談相手であった広沢の暗殺犯について独自の調査を行い、晩年まで犯人逮捕の努力を続けていくのです。

 では、いかなる理由により、広沢が襲撃の標的となったのか。彼に恨みを抱く者がいたとしたら、それはいかなる背景で、どのような身分の者だったのか。広沢は行政官として優れた能力を持ち、胆力、実行力も兼ね備えていた人物です。大久保は、いささか気難しくて理想家の木戸を苦手とし、実務派としての広沢のほうを相手にし易かったようです。長州派では木戸に次ぐナンバー2と見られたのも、当時の広沢は参議のほかに、民部省御用掛、東京府御用掛を兼任しており、掌握する権力の大きさからみても当然だったでしょう。
 彼は山口の脱退兵騒動のときも、処分者としての手腕をふるっており、残党や不平党の追及、捕縛も容赦なく続けていたので、奇兵隊の脱徒が犯人だとする説もありました。大楽源太郎、富永有隣などの名が挙げられ、政府は事件以降、彼らをきびしく探索させています。

 広沢暗殺の犯人ではないにしても、攘夷派とみられる者たちは、今後に政府要人の襲撃を企てる危険性ありとして、取り締まりが厳しくなっていきました。その他、遷都に不満を抱いていた京都の公家、外山光輔、愛宕通旭なども警戒の対象者となりました。要するに、東京政府を敵として、要人を害そうとする者たちは諸藩に散らばっており、たまたま広沢が東京に残っていたために標的にされたのかもしれず、彼は木戸や大久保らの身代わりに殺されたとも推察できます。だとしたら、まことに不運だったと言わざるを得ず、その後、反政府一味による陰謀の風聞もあって、京都、大阪、兵庫、函館などに戒厳令が敷かれました。

 しかし、広沢暗殺の下手人については、ついに発見されずに年月が過ぎていきました。なお、3月には大楽源太郎をかくまっていた久留米藩の知藩事と藩幹部が捕まり、謹慎、拘禁などの処分を受けています。大楽は危機感を抱いた久留米藩士の手で斬殺されてしまいましたが、大楽の暗殺に関与した者たちはのちに検挙され、処罰されました。その後、攘夷派浪士と気脈を通じていた愛宕、外山、比喜田源二ら、さらに丸山作楽一派も捕えられました。愛宕、外山は切腹、比喜田、高田源兵衛(河上彦斎)ら8人は斬刑に処せられています。厳刑は大久保の意志が働いていたようですが、討幕に力あった公家の制度を解体し、攘夷派を切り捨てた維新政府は、揺籃期の国家安定のために、非情な手段を選ばざるを得なかったと察せられます。


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