木戸孝允への旅 98


維新編(明治4年)

● 薩長、九州の叛徒対策でまたも対立!

 話をすこし戻しますが、木戸、大久保、西郷らは神戸からニューヨーク号に乗って、横浜には2月1日に到着し、翌日には東京に戻りました。木戸だけは横浜で歯の治療を受けてから、3日に帰宅。2月6日には岩倉が陸路、東海道を通って帰京し、翌7日に大久保を訪ねて、三藩会合前の打ち合わせをしました。その後、大久保は、
「木戸には是非ぜひ出席するように、しっかりお話しください」と岩倉に手紙で頼んでいます。
 山口では脱退兵騒動が完全には沈静化しておらず、一部の叛徒が九州に逃れて諸藩に悪影響を及ぼしていたため、ややもすると中央の政策よりも、そちらのほうに木戸ら長州人の注意が向けられている状況を、大久保らは懸念していました。それで、9日には三条、岩倉両卿がそろって木戸邸を訪れ、薩・長・土三藩の協力について、木戸に念を押さなければなりませんでした。しかし、この脱退兵の問題は5月まで尾を引くことになります。

 三藩の会議により、御親兵については鹿児島は歩兵四大隊と砲兵四隊、山口は歩兵三大隊、高知は歩兵二大隊と騎兵二隊、砲兵二隊の計8千人を差し出すことになりました。西郷はその準備のために2月中旬に鹿児島へ、木戸も下旬には山口に戻りました。なお、こうした3藩の動きに刺激されて、肥後藩も米田虎雄らが協力を申し入れてきたので、木戸はその斡旋に尽力しています。九州の叛徒鎮圧には鹿児島、山口、高知藩とともに熊本からも兵一大隊が派遣されました。
 攘夷派の処分や彼らをかくまっていた久留米藩の処分については前回に触れましたが、その後も木戸はすぐに帰京できなくなっていました。山口藩の毛利敬親公がにわかに病を発し、病状は一進一退から悪化に転じて、3月28日、ついに亡くなってしまったのです(享年53)。木戸は悲嘆にくれ、よき理解者であり、過激な藩士にも包容力をもって対し、かつ庇護した故人の恩を改めて思わずにはいられませんでした。東京政府は勅使を派遣し、従一位を贈与。

 敬親公の死去により、本人の上京は不可能になりましたが、東京の大久保からは木戸の帰京を催促する手紙が届いていました。鹿児島からは島津久光に代わって忠義公の上京が決まっており、それに合わせて、一日もはやい木戸の帰京が望まれていたのです。しかし、木戸は藩公の葬儀が終わっても、東京に戻ろうとはしませんでした。薩摩に対する不信感を募らせていたからで、以前からその胸中を同藩の井上や山縣、三浦(梧楼)には手紙で打ち明けていました。九州の騒乱は山口の脱退兵が関係していたので、山口藩だけで叛徒を追討することを嘆願したのですが、薩摩藩がそれに異議を申し立てたために、薩長に加えて肥後藩にも出兵の命令が下されました。ところが、薩摩では西郷が帰藩してから1か月経っても、兵を動かす気配がなかったのです。

 木戸は西郷に不信の念を起こしていました。自分たちから3藩の出兵を提言したも同然なのに、それを実行しないのは無責任ではないか、と憤慨したのです。彼は岩倉へも手紙を書いて、薩摩に対する不満をぶちまけました。岩倉も、ここで薩長が対立するのはまずいので、なんとかしなければならないと思い、すぐに大久保に助力を請うと、ようやく薩摩から大山格之助(綱良)が山口・熊本の軍が駐留する日田にやってきました。しかし、大山は「これほどの大軍を動かすほどのことではない」とみて、
「久留米藩の処置も終わったので、解兵するべきだ。西郷なども同論である」
 と述べて、すぐに引き上げてしまいました。
 政府の方針は、九州が完全に安定するまでは解兵しないということで、そう厳命もしていたのですが、結局、薩摩の言い分がとおって、九州の派遣軍は解散となってしまったのです。

 「またも薩摩に売られた」
 と長州人は大いに怒り、木戸も、これでは朝廷の御用は勤められない、と完全にへそを曲げてしまいました。こうした状況に三条は困却して、佐々木高行に相談しました。このままでは木戸は山口から動きそうもなく、なんとかしなければなりませんでした。佐々木は疑惑を招くような薩摩人の行動にも問題がある、としたうえで、長州人も僻みっぽい、といい、
 ――このたびも木戸は天下の参議なり。速やかに上京、公然と議論を起せば自ら天下の口論に相運べども、またすねたり。実に困りたる事〜

 と、なかなか手厳しい批判をしています。大久保は、もはや自分が西郷従道と一緒に山口まで行って弁解するほかない、と考えましたが、岩倉は「大久保ではあまりに丁重すぎて、外部からとやかく言われるのではないか」と懸念しました。しかし、佐々木は「世間では鹿児島は久留米藩などに同情的ではないかとみて、山口との対立が噂されているので、はやく大久保を派遣して、木戸を東京に連れ戻したほうがよい」という意見で、副島、斎藤(利行)も彼の意見に賛同しました。結局そのとおりに決定され、大久保は西郷の弟従道を伴って、5月3日に横浜を発ち海路、神戸経由で山口に向かったのです。
 一方、木戸は、まさか大久保自身がやって来るとは思っていなかったので、
「実に朝廷にたいし奉り、恐縮のいたりなり」
 と日記に記していますが、大久保の来訪をうけて、心情的にはかなり満足していたのかもしれません。大久保が、大山の行動については申し訳なかった、と率直に謝って、知事公と木戸の速やかな上京を促すと、木戸はあっさり了承しています。日田には改めて佐賀、熊本から各一個大隊の兵を出すことになり、東北にも東山道鎮台を置くことが決定されました。木戸は5月16日には山口を発ち、三田尻で大久保とともに軍艦『鳳翔丸』に乗って帰京の途につきました。


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