木戸孝允への旅 99


維新編(明治4年)

 廃藩置県の舞台裏

● 官制改革での木戸、大久保の攻防

 大久保が山口を訪れ、ようやく木戸を東京に連れ戻したので、薩長に土佐、肥前を加えた協力体制が実現されることになりました。といっても問題は山積みしており、まず官制改革に着手しなければなりませんでした。大久保は参議を一人だけとし、木戸を推すつもりでいましたが、この案は最初に西郷が言い出したようです。「船頭多くして、船山に上る」ではないが、参議が多すぎると政策が容易にまとまらないという欠点を克服するためでもあったのでしょう。要するに、総理大臣をトップとする、のちの内閣制度(明治18年発足。初代総理大臣は伊藤博文)につながるもので、大久保は即座に賛成し、木戸を首班として、他の者たちは木戸に協力し、彼を補佐する体制を整えるべく、西郷とともに積極的に動き出しました。

 まず、西郷が板垣にこの案を話すと、彼に異論はなく、次に井上、山縣に相談すると、長州人たる彼らが反対するわけもなく、岩倉、三条も賛同して、残るは木戸本人の説得となりました。しかし、薩摩人のやることには常に警戒心をもって見る癖がついている木戸が、「はい、そうですか。わかりました」と簡単に承諾するはずもなかったのです。
 西郷は最初に、山縣ら同じ長州人に木戸の説得を頼んだのですが、当の本人は「西郷や大久保もいるのに、なんで俺一人が…」と、持ち前の用心深さを発揮して、即座に辞退する旨を告げました。それで今度は、三条と岩倉が木戸の参朝後に彼を別室に呼んで、一人参議になって上下に指導力を発揮してほしい、と告げました。木戸は、
「すでに山縣や井上に返答したとおり、辞退申し上げたい。むしろ西郷が参議になるべきです」
 と、首を縦にふる様子もなかったので、岩倉は大久保を訪ねて、木戸の固辞の意志が強いことを知らせました。しかし、大久保も簡単にあきらめる漢ではなく、木戸が参議になるべき理をさらに熱心に説き、もう一度、三条とともに木戸を説得するよう、岩倉に頼んだのです。
 こうして山口から東京に舞台を移して、またも両者の攻防が、形を変えて再発することになりました。

 木戸はひとり参議になっても、自分の意見に大久保らが素直に従うとは思えなかったのでしょう。むしろ、責任を一身に負うだけで、なにか異論が生じて政事が紛糾すれば、どうなるかわかったものではない。大久保はいったい何を考えているのだ、と木戸は猜疑心を募らせ、だれがなんと説いても承知しませんでした。6月1日に西郷よりこの案が出され、各要人に根回しがなされて、13日に木戸への説得が始まってから10日が過ぎても、もめ続け、決着する兆しは見られませんでした。ついに大久保が根負けし、西郷と木戸の二人を参議とする連立内閣案で木戸を陥すことに作戦を変え、西郷もこれを了承。24日には大久保自ら木戸を訪ねて、説得に努めました。さすがに木戸もこれ以上の抵抗は無駄と悟ったのか、しぶしぶながら承諾することになりました。難攻不落と思われた木戸城も陥落して、大久保は快笑したでしょうか。

 しかし、木戸自身はまだ納得しておらず、翌25日にも会議の席で参議就任には難色を示し、もはや3年前の宿志どおり勇退したいとまで言う始末で、大隈らが説得に説得をかさねる事態となりました。「あなたがこれ以上拒絶すれば、政府が混乱し、政治が停滞する」と大隈に脅され、木戸もこれは暫定的な措置という解釈をもって、ようやく譲歩することになったのです。
 当日、参議全員を免職(樺太出張中の副島種臣を除く)としたうえで、木戸、西郷が参議に新任され、各省も少輔以上が免官となりました。その後の人事では、岩倉が外務卿、寺島が外務大輔、大久保が大蔵卿、大隈が大蔵大輔、後藤(象二郎)が工部大輔、大木が文部大輔、井上が民部少輔、山縣が兵部少輔に任じられました(刑部省と弾正台は7月9日に廃止され、新たに司法省を設けて、佐々木高行が司法大輔に、宍戸環が同少輔に就任)。木戸は人事よりも制度改革を先にすべきという意見だったので、不満がありました。その制度論も大久保とは意見が異なっていました。
 大久保は各省のトップ、次官の権限を強化して、行政主導型の政府をめざしていましたが、木戸は大納言、参議の役割を重視し、立法官として諸省の割拠主義をおさえ、将来の議会制度における上院の役割をも果たすことを想定していたようです。各省の卿が参議を兼ねると、立法、行政、議政の全権を握ることになるので、三権分立論者の木戸はそれを嫌ったのかもしれません。木戸の主張が通って、制度取調べの審議が近日中に行われることになりました。

● 廃藩置県の舞台裏

 薩長土、三藩から東京に差し出される親兵は6月末までに上京を終え、総計8千余人にのぼりました。これで廃藩置県を実行に移す体制は整いました。木戸の頭の中では版籍奉還を行った時から、実行のタイミングを計っていたに違いありません。しかし当時、最初に動いたのは鳥尾小彌太(元奇兵隊隊長)と野村靖でした。鳥尾に近い人物の話によると、鳥尾から野村に廃藩断行の話をすると、野村は直ちに賛同し、その後、二人は山縣の邸を訪ねて、酒を酌み交わしながら封建制度の打破について話し合いました。鳥尾がもっとも熱心で、
「諸藩の中で、朝廷の命を奉ぜざるものがあったならば、直ちに親兵を率いて、これを討伐しなければならぬ。もし先輩中において、万一これに反対するものがあれば、これを隅田川の舟遊びに誘って、水葬に附するもやむを得ぬ」
 と意欲満々に語ったとのことです。この計画を実現するためには、まず木戸、西郷の二参議を説き伏せねばならない、ということで意見が一致し、西郷には山縣が、木戸には井上をして説かしめよう、ということになりました。

 西郷は当時、浜町に薩摩藩が所有する邸に住んでいました。7月2日に山縣が西郷を訪ねると、先客があったらしく、取次の者に別室に通され、そこで煙草盆とカルカン(山芋、うるち米の粉に砂糖を混ぜて蒸した薩摩の菓子)が出されました。その後、しばらくして西郷が入ってきました。ご多忙のようでしたら、日を改めても構いませんが、と山縣が遠慮して言うと、西郷は「いや、ただ今でも差支えありません」と答えたので、山縣はやや緊張した面持ちで話を始めました。客の話が終わるまで、黙って聞いていた西郷は、
「それはよろしかろうが、木戸さんの意見はどうか」
 と聞くので、それは、あなたの意見を聞いたうえで、木戸に相談することになっています、と山縣が答えると、
「木戸さんが賛成なら、よろしゅうござる」
 あまりに簡単に言うので、山縣は相手が本当に理解しているのか不安になって、
「これは重大な問題なので、流血の事態を覚悟しなければなりませんが」と念を押すと、
「吾輩のほうは、よろしゅうござんそ」と西郷は、変わりなく冷静に答えたとのことです。

 鳥尾、野村から話を聞いた井上は、大蔵省の予算のこともあって、廃藩置県はぜひやるべきだ、と思っていたのですぐに同意し、木戸に話をすることを請け負いました。7月6日に井上が木戸を訪ねて、これまでの事情を語ると、もとより木戸が反対するはずもなく、ただ西郷の意見を確認したいとのこと。翌日には、山縣が西郷の同意を得ていたことを知って、木戸は、今こそ決行の時、と心中感慨を深くしていました。3年前に、封建制を廃して郡県制に改めるべき理を説いて、理解をしてくれた者はただ一人だった、と木戸は日記に記しています(ただ一人とは、伊藤博文と思われる)。 版籍奉還を行った際には、主唱者の「木戸を殺せ」という声まで聞かれ、反対者を怒らせたが、今日はその時の反対者が賛成の意見に変わり、敵も味方となっている。これまでの苦労を考えると隔世の感がある――そんな趣旨の日記から、木戸の喜びが伝わってくるようです。

 同じころ、大久保も西郷から話を打ち明けられたのですが、慎重な彼でさえも「もはや機は熟した」と見たようです。大久保日記には次のように記されています。

 八日、吉田子(氏)入来。五字(時)より老西郷子入来。山縣より大英断云々示談の趣き、木戸におひても同意の趣、明日木戸氏に於いて会議致すべきとのこと、小西郷子も入来、手順につき、談合いたし候。

 こうして明治4年7月9日、午後5時より、木戸邸において、日本の未来を決する重大な「秘密会議」が開かれました。主な出席者は木戸、西郷(兄)、大久保、井上の四人で、山縣、鳥尾、野村、西郷(弟)、大山(彌助)は最初、別室に控えていたようです。ここにおいて、全国の知事全員を東京に招集し、免職、廃藩を命じることが決せられました。このことは直前まで、三条、岩倉にも、他藩の要人にも知らされず、薩長の幹部らによって極秘に計画され、進められたのです。井上の後日談によると、「反対する藩には御親兵をもって対応しなければならないが、その決心はしているか」との問いに、西郷は「その責任は自らが負うが、金のほうはだいじょうぶか」と井上に問い返すと、「それは請け合う」と井上は答えたが、実際には三文もありはしなかった、と。
 また、「太政官の会議では公卿や大名から異論がでる。どうしても同意できぬと言われたときはどうするか」という懸念に対しては、「みな、袂を連ねて辞職しよう」という覚悟を示し、「よし、それならばやろう」ということになった、と。
 翌日、廃藩置県の発表は14日に決定されました。

 7月14日、廃藩置県の詔書が在京56人の知藩事の前で、三条実美によって読み上げられました。ここに鎌倉幕府開設以来、700年続いた武家政治は事実上終わりを遂げ、260余の藩は廃止されました。大名の所領はすべて国家に返納され、民衆も解き放たれて、小作人は地主となり、自作農民として独立しました。これに先立って、薩長土肥4藩の知事(鹿児島藩・島津忠義、山口藩・毛利元徳、佐賀藩・鍋島直大、高知藩・山内豊範)が天皇の御前に召し出され、勅語を下賜されました。過去に版籍奉還を建言し実行した者として、これを称し、新たに知事職を命じて、今回の廃藩置県における協力を求めたのです。
 木戸は平伏する56人の知事のなかに毛利元徳公の姿を見て、感慨を新たにしました。敬親公亡きあと、家督を継いで藩知事となってから2年余。元徳公は木戸を信頼し、話をよく聴き正しく理解する人でした。今日あることを悟り、心の準備もしっかりしていたのでしょう。すでに彼は12日、三条、岩倉に辞表を差し出すとともに、華士族の称号を廃してみな平民となし、家禄は大蔵省に納めて一定の禄を下し賜われ、一国一府を設けて有為の人材をその長官に任ずれば、全国統一した基礎を立てられる云々の意見書を提出していました。他藩における上下の紛糾を考えれば、こうした主君を持ちえたことは、木戸にとって実に幸運だったといえましょう。

補記: 廃藩置県の詔書
朕おもうに更始(こうし)の時に際し、内以て億兆を保安し、外以て万国と対峙せんと欲せば、宜しく名実相副い、政令一に帰せしむべし。朕さきに諸藩版籍奉還の議を聴納し、新たに知藩事を命じ、各その職を奉ぜしむ。然るに数百年因襲の久しき、或いはその名ありて、その実挙らざるものあり。何を以て億兆を保安し、万国と対峙するを得んや。朕深くこれを慨す。仍(よっ)て今更に藩を廃し、県と為す。これ務て冗を去り、簡に就き、有名無実の弊を除き、政令多岐の憂無らしめんとす。汝群臣、それ朕が意を体せよ。
(註: 旧字を新字に、送り仮名を直しているところがあります)


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