木戸孝允への旅 100


維新編(明治4年)


● 岩倉使節団をめぐる紛糾

 廃藩置県が断行された当日、新たに板垣退助と大隈重信が参議に任命されました。木戸・西郷の二参議制はわずか20日をもって終了したことになりますが、木戸が大隈の参議就任を強く推したとか、廃藩置県の秘密会議に呼ばれなかった土佐と肥前の不満を解消するためだったとか言われています。いずれにしても、これで薩長土肥、四藩の協力体制が整ったわけです。つんぼ桟敷に置かれていたのは旧公家たちも同様でしたが、すでに摂関制は廃止され、東京遷都によって公家体制は解体されていました。徳大寺実則と嵯峨実愛は同日(7月14日)、大納言の職を免じられ、閑職の麝香の間祗候となりました(のちに徳大寺は侍従長に就任)。

 多少の混乱はあったものの、ほとんど懸念されていたような抵抗もなく廃藩置県が行われたことは、時勢の変化もあったでしょう。とくに小藩のなかには財政状況が悪化して、政府の制度改革の要求に応じきれず、すすんで廃藩を願い出ていた藩もありました。また、名古屋、鳥取、熊本、徳島のような大藩も、廃藩の建白書をすでに提出していました。しかし、薩摩の島津久光だけは、西郷、大久保に騙されたという思いが強く、自邸中に花火を打ち上げさせて、維新以来ためていたうっぷんを晴らしたといいます。

 当初は3府302県となっていたのですが、のちに府県区画の修正があって、11月には3府72県に改変されました。
また、官制改革も行われ、太政官には正院のほか、左院(立法)と右院(各省調整機関)が置かれ、太政大臣には三条実美が就任、10月には岩倉具視が右大臣に昇任しています。なお、神祇官は8月に神祇省に改められ、太政官の下に置かれることになりました。社会的には武士の脱刀、散髪の許可、各階層間の通婚の自由化、穢多・非人の称の廃止などの布告が次々に出され、平等・自由化の政策が推進されていきました。木戸はすでに許可令に先立って断髪し、同時期に大久保も断髪を済ませています。

 廃藩置県によって武家政治を支えていた封建制度が名実ともに解体したことから、全国の世帯を一手に引き受けることになった維新政府の前途には、内政、外政ともに困難な問題が山積みされていました。内政においては民政、財政、兵制を整えて国家の基礎を確立することはもちろん、外政においても樺太問題、朝鮮問題、琉球問題など、解決の困難な懸案に取り組まなければなりませんでした。なかでも急を要するのは、諸外国との条約改正の問題でした。安政年間に旧幕府が欧米諸国と結んだ通商条約を改正する時期が、翌年、明治5年に迫っていたのです。

 この条約は外国事情もよく知らない開国まもない日本には不利に結ばれた、いわば押しつけられた不平等な条約でした。かねてから外国公使の勝手な振る舞いや無礼な言動に憤懣を募らせていた大隈重信は、条約改正の重要性を意識して、格別の意欲を抱いていました。改正前に各国の事情を調査し、十分な準備をして日本の国益を損ねないようにしなければならない。そのためには海外に使節を派遣する必要があると思った大隈は、自らその任に当たることを望んで発議を行ったのです。この大隈使節団の案は三条のもとで練られ、それによると、欽差全権使節一名、二等使節(副使) 一名、一等書記官一名、二等書記官二名などとなっており、通訳を加えても全体で22名程度、多くても30名を超えない規模で計画されたようです。それが最終的には、全権大使が大隈から岩倉に代わり、総勢100名を超える大使節団となったのは、どういう経緯からだったのでしょうか。

 8月下旬に大隈の使節派遣について聞いた大久保は、かねてより洋行希望を持っていた木戸を伴って、自ら使節となり、海外に赴くことを決意したようです。外政の主導権を大隈に握られたくなかったとも言われています。この話は急速に進んだらしく、すでに三条が9月10日付の木戸宛ての手紙で、木戸の渡航について猛反対をしています。「国内情勢が大変な時に、あなたが政府を離れたらどのような不都合が生ずるかお考えください。以前から洋行のご希望があるのは存じておりますが、国家のためにはなにとぞ今回は思いとどまって、内政に尽力を注がれるよう心からお願いいたします」と必死に止めています。ところが、岩倉も同時期に木戸に手紙を書いており、こちらは木戸の洋行を切に望んでいるのです。「なにとぞ大久保に同道してくれませんか。たとえ遊軍でもよいから、いろいろとご尽力くだされば、帰朝後は国家のためにもなりましょう」という要旨で、これには大久保の意向がかなり働いていたと思われます。

 木戸が国内に残っては、急進改革派にかつがれてなにをしでかすかわからない、という危惧が大久保にはあったのでしょう。留守中に長州派の跋扈、強大化を防ぐためには、木戸をなんとしても自分と一緒に海外に連れ出さなければならない――そう思っても、今度は板垣、井上など、次々と反対派が現れて、この問題は紛糾していきました。井上は大蔵卿である大久保の洋行に反対したのです。大蔵省は民部省を吸収しており、財政ばかりでなく、民政の分野でも絶大な権限を持っていたので、そのことについて批判の論が起こっていました。大蔵卿大久保の下に就いていたのが大蔵大輔である井上で、大久保が国外に出れば、井上が最高責任者になります。しかし、井上は参議ではないので、正院で意見を述べることはできず、正院の指示には従わなければなりません。これでは手足を縛られたも同然で、とても職務をまっとうすることはできない。ということで井上は、辞任する、と駄々をこねだしたのです。

 それまでは大久保の洋行に理解を示していた井上ですが、最後になって突然180度意見を転換してしまいました。一度言い出したら相当に頑固な男ですから、大久保は手こずりました。木戸、山縣、大隈、岩倉にも井上の説得を頼んだのですが、それでも井上は承知しません。それは、政府内に大蔵省、あるいは井上自身に対して反対的な雰囲気があったことも原因しており、大久保の留守中にそうした反対論が嵩ずることを、井上は懸念していたようです。ついには誰に対しても「辞職する、辞職する」の一点張りとなり、大方の者は匙を投げてしまったのですが、大久保はなお粘り強く井上に対し説得を続けました。再三にわたる大久保の説得に、ついに井上も軟化して、承服の態度に転じたのは10月半ばのことでした。

 乳児が慈母を困らせるような言動をして、まことに申し訳なかった、とのちに井上は大久保への手紙で恐縮して謝っています。しかし、井上の懸念は、大久保らの留守中に現実となる運命を負っていたようです。この井上問題には西郷も尽力し、このうえ異論が生ぜぬよう、留守政府の責任を一身に引き受けることになりました。大隈使節団に代わる岩倉使節団のプランについて、難色を示していた三条太政大臣の説得にもようやく成功して承認を得ると、9月末には使節方別局が設けられ、渡航に向けた打ち合わせが開始されました。使節団の陣容については、全権大使を岩倉具視とし、木戸、大久保に加えて、伊藤、山口尚芳(ますか。肥前)の四人が副使に任命されました。伊藤は木戸の推薦により使節団に加わり、バランスをとって肥前出身の山口をも副使として参加させたようです。使節団の人数は46名ですが、随従者18名、留学生43名(うち、山川捨松、津田梅子など女子4名)を加えると、総勢107名におよぶ大洋行団となりました。

 出発前にいろいろと紛糾はありましたが、明治4年(1871)11月12日、使節団一行は太平洋郵船の外輪船アメリカ号(4554トン)に乗り込み、19発の祝砲を耳にしたあと横浜港を出帆しました。湾内の外国艦には水兵たちが脱帽して整列し、あとを追う見送りの小型船がいく艘も散らばり、やがて、かなたには富士山が夕映えの中、美しい姿を現していました。

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