木戸孝允への旅 101


維新編(明治5年)


● 岩倉使節団は何を目指したのか

 大使に随行した久米邦武が著した「米欧回覧実記」によると、アメリカ号は千五百馬力で、全長363フィート、上等客室30、次等の客室16の計46室あり、92人を収容。船長トーン氏以下、乗組員24人、水夫他79人が乗り込み、横浜からサンフランシスコ港まで上等船賃275ドル、中等は100ドルを減じる(175ドル?)、と記されています。さて、この大掛かりな使節団の目的はいったい何だったのでしょう。条約の相手国を歴訪して、元首に国書を奉呈し、「これからよろしくお願いします」と極東の小国、といえども独立国家としてのご挨拶。もちろんそれはあったでしょう。より実務的には、条約改正にかかわる予備交渉であり、日本の希望を伝えることでした。すなわち、国内の制度を改革し、法律を整備して、条約が日本の不利に改訂されないようにするための準備期間が必要で、そのためには条約改正の延期も考えていたのです。各国の制度、文物を見聞して知識を深め、日本の近代化をすすめることも急がれました。

 使節団出発前に三条実美が述べた送別の辞には、その目的や期待の念がはっきり表されています。

外国の交際は国の安危に関し、使節の能否は国の栄辱に係る。今や大政維新、海外各国と並立を図る時にあたり、使命を絶域万里に奉ず。外交・内治、前途の大業その成その否、実にこの挙に在り。豈(あに)大任にあらずや。大使天然の英資を抱き、中興の元勲たり。所属の諸卿みな国家の柱石、而(しこう)して率いる所の官員、また是れ一時の俊秀、各欽旨(きんし)を奉じ、同心協力、もってその職を尽す。我その必ず奏功の遠からざるを知る。行けや海に火輪を転じ、陸に汽車をめぐらし、万里馳駆(ちく)、英名を四方に宣揚し、恙(つつが)なき帰朝を祈る。

 しかし、その後の展開をみると、条約改正に関しては予備交渉ではなく、締結にむけた正式な交渉に変わっていくのですが、なぜそうなったのでしょうか。使節団一行が最初の訪問地である米国サンフランシスコに到着したのは明治4年12月6日(陽暦1872年1月15日)でした。早朝に深く立ち込めていた霧が、陽が昇るころにはきれいに晴れて、眼前にカリフォルニアの山々やゴールデンゲート(金門)が浮かび上がり、一行は「景色ウルワシ」と、思わず嘆声を発しました。宿泊先はモントゴメリー街のグランドホテルで、ホテルの豪壮さにも驚嘆しています。建物は五層、1階の床には滑りそうなほど磨き上げられた大理石が敷き詰められ、食堂の広さは120坪あり、一度に300人が食事をしても余裕があるほど。さらに浴湯店、理髪店、玉突場、その他、酒、果物、薬品、煙草、衣類などを売る店があり、客の必需品はすべて揃うこと、客室は寝室、浴室、水洗トイレを備え、「大鏡は水の如く、カーペットは華の如く、上にガス燈を釣下し、昼は稜角のビードロ七色を幻し、賽(まがひ)金粉の光と相射る。夜はネジを弛めて火を点すれば、五曜七曜めぐりして、光を白玉の中に輝かす。窓にはレースの幔を掛け、霞を隔て花を見るが如し〜」など、初めて見る豪華な装備、装飾に、ただただ感嘆している様子が窺われます。

 翌日の夜には、ホテルの前で砲兵隊付属の楽隊が歓迎の曲を奏し、四万人の群衆が集まって使節の無事到着を祝いました。岩倉大使は鳥帽子に小直衣、切袴の姿でテラスに立ち、市民の歓迎に対して感謝の意を表しました。在日公使デ・ロングが英訳された文章を読み上げると、万雷の拍手が起こり、しばらく鳴りやみませんでした。

 その後も使節団は地元の歓迎攻めにあいました。14日夜にはホテルで大歓迎会が催され、会場には日章旗と三十七星旗とが交差してかかげられ、知事や顕官、300人の市民たちを前にして、伊藤博文がのちに「日の丸演説」(「岩倉使節団」、「伊藤はなぜ日の丸演説をしたのか」参照)として知られる挨拶を英語で行いました。
 この地で使節団は羊毛紡績場や様々な製造場、製鉄所、会社、公園、学校などの施設を視察・見学し、なかでも木戸は小学校に強い印象を受け、日本における普通教育の必要性を痛感するにいたりました。
 12月22日にはサンフランシスコを発ち、サクラメント、ソルトレイク、シカゴを経て、一行がワシントンに着いたのは明治5年1月21日。宿舎のアーリントン・ホテルにはグラント大統領夫人から巨大な生花の花束が届けられていました。先のサンフランシスコ市は使節団の接待に10万ドル近くを費やしたらしく、木戸も恐縮して、なにか返礼をしなければ、と思ったほどです。行く先々で歓迎を受けたものですから、留学経験のある伊藤もすっかり気を大きくしてしまったのでしょうか。条約改正の交渉を使節団の手で行うべきだ、と主張し始めました。伊藤は、「これほどの接待を受けて、目的が友好親善だけでは使節団の体面にかかわる。条約改正の交渉には、キリスト教をただちに解禁する必要がある」とまで言い出したのです。

 伊藤の主張に加担していたのは当時、駐米少弁務使であった森有礼(米国では公使または代理公使の扱い)でした。森は条約改正については積極的であり、自らいろいろ画策もしていたらしく、この時点では岩倉以下、使節団首脳も「正式な交渉をしよう」という気になっていたのです。伊藤、森の積極的な姿勢に加えて、想像以上の歓迎ムードに幻惑されたこともあったのでしょうが、事はそう簡単にはいきませんでした。
 最初の交渉は2月3日、国務省で国務長官ハミルトン・フィッシュを相手に行われました。次官のチャールス・ヘイルと在日公使館の通訳ライスも出席し、日本側は正副使節のほか森も同席、領事裁判権や関税権などの改正を期待していました。
「全権委任状をお持ちですか?」
 フィッシュが最初に発した言葉に、岩倉は「委任状は所持していないが、自分たちは天皇陛下の御信任を受けているので、権限は持っているものとお考えいただきたい」と答えました。
「どうやら国際法をご存じないようだ。委任状を持たない人とは、いかに重要人物でも交渉には応じられませぬな」
 フィッシュが皮肉な笑みを浮かべて言うと、日本側は狼狽して話を中断し、相談を始めました。岩倉らが日本語であれこれ話し合っている間、フィッシュは黙って紙に鉛筆で使節団の似顔絵を描いていたといいます。米国側に軽くあしらわれて、「そうですか、わかりました」と子どもの使いのように引き下がるわけにもいかず、結局、大久保と伊藤が委任状を取りにいったん帰国することになりました。

 二人が帰国し、再び米国に戻ってくるまでに、木戸、岩倉らは米国側と何度か会談を重ねていました。しかし、日本側が開港場や外国人居住地の拡大などで譲歩しても、米国側が領事裁判権の廃止や関税の決定権について承知することはありませんでした。米国側はまだ開国間もない未開な日本で、白人の生命財産の保障など、しっかりした法整備が短期間でできるはずがないと思っていたのです。交渉が思いどおりにいかない中、木戸はいたずらに西洋文明を礼賛し、使節団を侮って、時として尊大な態度を示す森に対して不快の念を抱くとともに、条約改正の交渉を続けること自体にも疑念を持ち始めていました。その疑念は、イギリスから留学生の尾崎三良と河北義次郎(長州人で松陰門下生)がワシントンを訪れ、木戸に面会、二人の話を聞いた時には確信に変わっていました。
 実はそれ以前に、木戸は条約について、駐日ドイツ公使フォン・ブラントからある重要な話を聞いていたのです。それは日本・プロイセン修好通商条約第19条の最恵国条項に関する情報でした。すなわち「条約締結国が任意の国に有利な条件を与えれば、他の締結国にも同等の条件を無条件に与える」という規定で、米国と先に条約を改正してある特典を与えれば、日本には何の見返りもなく、欧州の締結国をも利することになる。なぜなら、安政の通商条約にはすべてこの「最恵国条項」が明記されていたからです。

 尾崎らは、この時点で米国と条約交渉をすることの危険性を、使節団に知らせに来たのです。日本にとって「百害あって一利なし」と。木戸は「彼の欲するものはことごとく与え、わが欲するものはいまだ一も得るあたわず」と日記に記しています。木戸の胸に伊藤に対する不信感が芽生え、さらに、洋化派に対して批判的な意見を口にするようになったのも、このころからでした。木戸の話を聞いて、岩倉も対米交渉の不利を悟り、フィッシュには「ヨーロッパのどこかで一括交渉の会議を開きたいので、米国も代表者を派遣してほしい」と申し入れました。しかし、米国は二国間交渉以外に応じるつもりはなく、大久保、伊藤が戻ってくる前に日米交渉は「打ち切り」という結論に達したのです。

 3月24日に東京に着いた大久保と伊藤は正院に出向き、事の経緯を話して全権委任状を請いました。しかし外務を担当する副島、寺島宗則をはじめ、留守政府では反対意見が大勢を占めたのです。議論はかみ合わず、もめにもめましたが、大久保らも手ぶらで米国に戻るわけにはいかず、こちらの希望が叶わなければ切腹するほかない、とまで言ったという話が伝わっています。そうした覚悟が功を奏したのか、5月14日になって、ようやく天皇から委任状が下され、安堵した大久保らは再び渡米、ワシントンには6月17日に着きました。この時、寺島が心配のあまりか、二人に同行しています。
 その後、すぐに彼らは岩倉、木戸らと話して、事態の急転を知りますが、その得失を論ずれば、交渉の継続がすこぶる日本側に不利なことは、大久保らも認めざるを得ませんでした。

 結局、第11回目の日米会談をもって、条約改正の交渉は打ち切られることになりました。日米間の往復で4か月を空費したあげくに、ようやく得た委任状も無用となってしまったのです。
 「大方そんなことだろうと推察していましたよ」
 微笑を浮かべて言うフィッシュに、一同は「みな忸怩として流汗背にあふれ、仰ぎ見るあたわず」(尾崎の覚書より)の状況だったそうです。


前へ  目次に戻る  次へ