木戸孝允への旅 89


維新編(明治2年)

● 新政府の苦境

 版籍奉還が順調に進んでいた明治2年5月には、函館戦争がようやく終局を迎えていたことは「旅87回」で延べました。木戸が受け取った函館の情報には中島三郎助が戦死したという哀しい知らせもありました。中島の死を聞いたとき、彼は口にした杯を止めて、それ以上酒を飲むことができなかったといいます。中島は木戸が江戸遊学時代(安政2年)に学んだ造船術の恩師で(旅7を参照)、ペリー来航時には浦賀奉行所の与力として米艦に乗り込んでいます。当時、まだ幼少だった二人の子息・常太郎と房二郎も、函館で父とともに戦死(各々、享年21、18)していました。

 木戸は前年秋に明治天皇に供奉して東京に入った時、中島の身を心配して密かに探していました。彼は中島の性格から幕軍に従うことを憂慮し、天下の形勢を語ってなんとか止めようと思ったのですが、すでに函館に去ったあとでした。当時の日記に「中島は実に義人であり、忘れがたい恩師であった。今日朝敵となった者が白面、本領安堵を願い出て恩義を忘れる者も少なくないのに、一時の方向を誤って旧幕府のために戦死したことは悲嘆に堪えない」と、哀惜の念を記しています。のちに中島の妻女のことを聞いて、木戸は面会して彼らを慰めるとともに、一家の世話を密かに人に託しました。明治9年には中島の妻が一男一女を伴って木戸宅を訪れたので、彼は娘のお六(14歳)を養女にして、嫁ぎ先を世話しようともしていました。

 木戸は旧恩をけっして忘れず、何年経ってもこれに報いることに熱心でしたが、兵術の師・江川太郎左衛門の家族に対しても同様でした。また、尊王攘夷の旗印の下、対幕戦で逝った同志の遺児たちも、温情をもっていろいろと面倒を見ていますが、こうした話は別項「木戸・桂徹底研究」の「桂小五郎・リーダーの資質を探る その3」と重複しますので、詳しくはそちらをご覧ください。

 この時期、戊辰戦争における勝利は確実であったものの、新政府は依然としていくつもの難題を抱えていました。京都の根強い遷都反対論を押しきって、3月には再び天皇の東京行が実現しましたが、攘夷から開国へと転じた新政府に対する攘夷派の反発は実に大きかったのです。すでに1月に、参与・横井小楠(肥後藩)の暗殺事件が起っており、3月にはフランス公使館員3人が襲撃され、イギリス人も馬車から引きづり降ろされるという被害があり、諸外国からはげしい抗議を受けていました。さらに、各藩が財政難から贋金・悪幣を鋳造しており、版籍奉還によって新政府がそうした借金の肩代わりをしなければならなくなっていました。これまでに由利公正の発案によって発行された金札(太政官札:10両、5両、1両、1朱、5分の5種)は不人気で、もとより政府に十分な信用もなく、不換紙幣であったこともあって各方面からの苦情の種となっていました。

 こうした外交、行政、経済におよぶ混乱は民衆を苦しめたので、政府に対する怨嗟の声が巷に満ちるようになってきました。当時、東京には三条実美しかおらず、朝官は責任感が薄いうえに協調性もなく、ばらばらな状態でした。版籍奉還が進行中とはいえ、いまだ各藩が割拠して実力が伴わない新政府は侮られ、人心は離れて旧幕府を慕うという風潮が生じていました。破壊から建設への過程では避けて通れない道程とはいえ、早急に対策を講じなければ、新政府は基礎をかためる前に崩壊しそうな状況にまで追い込まれていたのです。
 その重責に耐えきれなかったのか、三条は岩倉宛(4月6日付)の手紙で、

 実に尊公(岩倉)、木戸、大久保の東下を希望する事、一日千秋の思いです。中々をもって、当今の形勢、筆端の尽くす所ではありません。

 と、苦境の現状を訴えています。大久保は勅使・柳原前光の副使として薩摩に滞在後、京都にもどり、伊勢神宮に参拝してから大阪発の汽船に乗船、東京には4月26日に到着しました。木戸はこの時期、頭痛と胸痛に悩まされており、オランダ人医師ボードインから転地療養と海水浴をすすめられていました。したがって、すぐには東京に行けない状況でしたが、岩倉は大久保に前後して東京に着いており、三条同様、相当な危機感を抱いていました。大久保も同様で、とくに大原重徳が議定に選任されそうなことを知って、事成らず、どうしようもない、と慨嘆しました。大原は守旧派で、天皇東行にも反対し続けた人物でした。能力のないものが要職に就き、やたらと人数も多く、風紀も乱れている現状を打開するには、人事を刷新するよりほかなく、そのためには政体書に定めた官吏の公選制を実行することだ、と大久保は思い、岩倉、板垣、後藤などを説得して賛同させました。

 政体書は前年閏4月に発布されており、五箇条の誓文を基礎として、太政官への権力集中、三権分立、公議世論の尊重、官吏の公選制(4年を任期とする)などを定め、立法権をもつ議政官は上局(議定と参与)と下局(府藩県から選出)から成る二院制を謳っていました。5月13日、勅任の三等官以上による3職(輔相1名、議定4名、参与6名)及び各官の知事、副知事を選ぶ選挙が実施されました。3職の選挙結果は以下のとおりです。

輔相 三条実美右大臣(49票)
議定 岩倉具視大納言(48票) 徳大寺実則大納言(36票) 鍋島閑叟中納言(29票)
参与 大久保一蔵(49票) 木戸準一郎(42票) 副島二郎(31票) 東久世通禧(26票) 後藤象二郎(23票) 板垣退助(21票)
 木戸が東京にもどったのは5月末のことで、不在中に従四位下の参与になっていました。前年に彼は西郷、大久保らとともに位階を固辞していましたが、今回は辞することもできなかったため、正式に受けることになりました。選挙が行われた日には版籍奉還の方策についても話し合われ、5月21日から5等官以上の官員、公卿・諸侯らが東京城に集まって、公議所において意見が交わされました。議長は森有礼が務め、封建制を維持するか郡県制に改めるかについては、封建制を支持する藩が102藩、郡県制を支持する藩が101藩という結果でした。また、森が提案した廃刀許可令については、満場一致で否決されました。議員の憤りが激しかったため、森は後日、徴士罷免、位記返上を命じられています。

 岩倉は西洋事情に明るい森を高く評価しており、なんとか救済しようとして大久保に相談したのですが、なによりも出身地の薩摩藩での反発が大きかったことが罷免につながったようです。今は罷免するよりほかなく、そのほうが森のためだ、というのが大久保の意見でした。東北・函館戦争に勝利して凱旋した官軍の勢いは盛んで、止めようもなく、このままでは森自身に危害が及びかねない不穏な状況が窺われたのです。

 切腹禁止を提案した者(小野清五郎)もいましたが、この議案は圧倒的多数で否決されました。公議公論の代表者といえども、まだまだ旧来の価値観を捨てきれない者たちが多かったのでしょう。なお、小野は同年10月に暗殺されており、森の廃刀論に賛同したことが惨事の因となったという説もあります。
 版籍奉還については、知藩事を世襲制とすることに内決されたのですが、これでは封建制となんら変わることはなく、藩主が知藩事に名称変更されたに過ぎないとして、木戸が猛烈に反対しました。そのため、当代は認めるが、以後は非世襲となったのです。6月には知藩事任命の辞令が出され、知事の家禄は藩の実収高の十分の一となり、公卿・諸侯はまとめて華族と改称されました。

 公議府など無用の論多く、未だ今日の御国体には適し申すまじく候間、一応閉局の内評に相成り候。

 知人に宛てた大久保の手紙にみるとおり、公議所は当初の期待とは反する方向に進んでいたようです。各藩の代表議員(227人)には二流、三流の人物が多く、一藩の中でさえ意見がまとまらないなか、公議所では鎖国か開国かの是非さえ議論されていたのです。進歩的な議案を出せば、森のように罷免されるか、小野のように暗殺されかねない。木戸の版籍奉還論もまさに命がけであったことを考えれば、この後も近代国家をめざす改革において、その推進者の身に危険が迫ることは避けがたい宿命であったのかもしれません。


前へ  目次に戻る  次へ