木戸孝允への旅 107


維新編(明治6年)


● 征韓か、内治優先か − 政府内の対立激化

 幕末の尊王攘夷の思想から尊王開国へと大転換して誕生した維新政府には、まだ旧制度や攘夷思想にこだわる不平士族の存在が重荷となっており、その動静に神経をとがらせる毎日が続いていました。それと同時に、日本を取り巻く海外の情勢にも目がはなせず、難しい外交を余儀なくされていました。とりわけ、留守政府で緊急の議題に上がっていたのが隣国の朝鮮問題でした。朝鮮はまだ鎖国政策を続けており、幕末の日本と同様に、欧米列強との衝突を繰り返していました。このまま放置すれば、朝鮮はいずれロシア、フランスなど列強の勢力に呑み込まれ、植民地化は免れがたい。そうなれば、日本の防衛にも重大な影響を及ぼすことになる、という危機意識がこの時期には他の問題を圧倒して高まっていました。

 なかでも西郷は誰よりも朝鮮問題への関心を強めて、自分が使節となって朝鮮に赴き、国交の正常化を促すことを切望していました。しかし、朝鮮政府は幕末以来、かたくなな態度に終始しており、開国に踏み切った日本を警戒して、一切の交渉を拒否していたのです。再三にわたるその拒否の仕方があまりに無礼であるとして、このうえは武力に訴えるほかないと激昂する政府官吏もいて、木戸や大久保に直接訴える者たちもいました。また、戊辰戦争以来、戦いの場を失った不平士族たちも征韓論を掲げて、意気盛んな状況が生じていました。

 この時期に、外務卿・副島種臣が朝鮮の宗主国である清を訪れ、台湾や朝鮮問題などに関する意見をうかがい、7月末には日清修好条規の批准書を交換して帰国していました。副島の報告では、清は昔から朝貢を受けてはいるが、朝鮮の内政、外交に干渉するつもりはない、とのことでした。西郷は副島を説得して使節の役目を譲り受けると、8月17日の緊急閣議において、自らの遣韓使節への就任を三条太政大臣に請うたのです。最初に出兵ありきではなく、まず使節を派遣して談判すること、自分の身に何かあったら、あとのことはよろしく頼む、といった趣意の手紙を、西郷は板垣宛に書いています。どうやら渡韓に先立って、死を覚悟していたようです。その手紙では、樺太のロシア軍に対する備えについても触れており、陸軍大将としての務めを十分に意識していたとおもわれます。

 三条は、さすがにこの問題の重要性はわかっていたので、西郷を遣韓使節として内定はしたものの、実際の渡韓については、岩倉大使の帰国を待ってからという条件を付けました。もはや天皇の裁可も受けており、岩倉帰国まですこしだけ待てばよいということで、西郷はほっとしてその時を待っていました。
 岩倉大使が伊藤らとともに横浜港に到着したのは9月13日でした。米国へ向けて同港を発った日から、実に1年10カ月もの月日が過ぎていました。しかも、伊藤は外遊中に木戸と不仲になっており、まず木戸との関係を修復する必要がありました。岩倉はすでに帰国前に様々な情報を得て、国内の政治情勢をしっかり把握していたのです。
 
 木戸は征韓論にはすでに反対の意見書を提出していましたが、健康もすぐれなかったので、表立って行動することはありませんでした。三条が西郷の要請を容れて、彼を遣韓使節としたことについても不快に思っており、以前からほぼ征韓派で固められた閣議には、体調不良を理由に出席していませんでした。
 伊藤は帰国後すぐに木戸を訪ねて、彼の意見に賛意をあらわし、協力を惜しまぬ姿勢を示したので、それまでの気まずい雰囲気もあっさり氷解しました。以後、この問題では木戸の手足となって、岩倉、三条、大久保の間を飛び回って活発に働くことになるのです。

 外遊中、経済、技術・産業、軍事など、あらゆる分野にわたって、西洋諸国との圧倒的な国力の差を実感して日本に戻ってきた使節団首脳はみな、「内治優先」で意見が一致していました。まだ国内の政治体制も固まっておらず、社会情勢も不安定ななかで、外征などとんでもない、という思いだったのでしょう。しかし、当時は土肥中心の留守政府が政治の主導権を握っており、西郷を擁した征韓論を覆すのは容易なことではありませんでした。西郷の背後には朝野の征韓派士族もついていましたから、まことにやっかいでした。こうした勢力を敵にまわして闘うとしたら、木戸、大久保、岩倉、三条を結束させる以外に勝利の見込みはない、と伊藤は考えました。留守政府の横暴なやり方に腹を立てていた薩摩出身の黒田清隆も伊藤と同様に考えていたので、これ以後、二人は水面下で活動し、反征韓派の勢力を結集させる黒子役になっていきます。

 伊藤は、征韓派を粉砕するキーマンは大久保以外にないと思っていました。しかし、大久保は参議ではなかったので、閣議に出席する資格がなく、なにか思うところがあったのか、だんまりを決め込んでいました。約定書に違反して、勝手に新規の事をなし、大官の任免まで行ってきた留守政府に対しては、大久保も当然怒りを感じていました。だが、外遊中に木戸の弟分でもあった伊藤と急速に接近し、親交を深めたことなどから、木戸とはまだぎくしゃくしており、留守政府に対抗できるだけの陣容を整えることができませんでした。それで、大蔵省のことは大隈に任せて、中央政府からは距離をおき、傍観者的な立場を保っていました。しかし、政権奪還を諦めていたわけではなく、彼は討幕以来の盟友たる岩倉が戻ってくるのをひたすら待っていたのです。

 岩倉を待っていたのは大久保ばかりでなく、西郷も同様でしたが、彼のほうは特使として渡韓するために、閣議での正式な裁決を求めていたからでした。ところが、岩倉が帰国してからも、なかなか閣議が開かれません。それは岩倉が喪中(パリ滞在中に養父が死亡)を理由に三条に対して休暇を願い出ていたからで、三条のほうは西郷に閣議の開催を急かされて、板挟み状態になっていました。さらに、頼みの綱である木戸が辞意を表明するなどして、状況が錯綜としはじめていたのです。
 岩倉は休暇中になんとか木戸、大久保の仲をとり持ち、内治優先派の結束を固めようとして時間を稼いでおり、その間、伊藤も同様の目的で動き出していました。伊藤は大久保とともに岩倉を訪ねて、征韓論に反対する立場を互いに確認すると、すぐに木戸邸を訪れました。木戸と意思の疎通をはかり、協力を求めると、木戸はもちろん、征韓論がさかんな現状には不満を抱いていたので、大久保とのわだかまりを捨て、ともに闘う意思を二人に伝えたのです。しかし、大久保と伊藤が参議になって事にあたるべきと主張し、辞意については撤回しませんでした。健康状態が悪かったうえに、留守政府との信頼関係も損なわれ、さらに2〜3の長州人の不祥事にも悩まされて、嫌気がさしていたと思われます。どろどろした政争の渦中に飛び込んで、積極的にかかわる意欲も薄れていたのでしょう。

 岩倉もまず大久保を参議にする以外に、この難局を乗り切る途はないと考え、伊藤も、西郷に正面から反対できる人物は大久保以外にないと思っていました。板挟み状態の三条もまた、この苦境から脱するために大久保の政治力を期待していました。こうなると、大久保が決断するまで先へは進めませんが、彼の返事は皆の期待に反していました。
「お断りします」
 自分は参議にはならないと言いはり、三条や岩倉らを当惑させたのです。帰国後、大久保は何度か西郷と会い、話をしていました。しかし、二人の間にはもはや深い溝が生じており、互いに目指す方向が異なっていることを、大久保は認めざるを得ませんでした。朝鮮については、いずれ手を付けなければならない深刻な外交問題であることはわかっていましたが、西郷が使節となって朝鮮に渡ることは、相当な冒険であるとも思っていました。相手の出方次第で、一触即発の危険な状態になりかねない。だが、そうした事態に対処できるだけの準備が日本にはまだできていない、と。

 今は国内を安定させ、産業を興して国を富ませ、欧米列強に負けない国力をつけることが最重要であり、そのために内務省を創設したいという気持ちが大久保には強くありました。しかし、それを実現させるためには、西郷の進路に立ちふさがって、彼と彼に拠る征韓派を打ち負かす以外にありません。
 結果如何によっては、西郷配下の近衛兵がクーデターを起こす可能性があり、政治生命をかけた闘いになることは明らかでした。士族に人気のある西郷と対決するためには、長州閥の長たる木戸を説得して辞意を撤回させ、長州人をまるごと味方につけることが必須であり、閣議には引っぱり出せないまでも、木戸が舞台裏でしっかり支えてくれる確約がなければ、とても参議など引き受けるわけにはいかない――‐。
 
 「お断りします」という大久保の返事の裏には、こうした深い思惑があったのです。それに加えて、相手が西郷である以上、大久保は公家出身の三条、岩倉さえも、最後まで裏切らずに自分についてくれるのか、疑っていました。
 「木戸さんが辞職を撤回するまで、参議を引き受けるわけには参りません。とにかく、木戸さんを中心にして征韓派に対抗する作戦を考えるべきです」
 岩倉が説得しても、入れ替わりに伊藤が説得しても、大久保がこの主張を変えることはありませんでした。それで今度は木戸の陥落を意図して、伊藤が木戸邸に走り、さらに岩倉、三条が木戸を訪ねて、辞職の撤回を求めて、こんこんと説得しなければなりませんでした。そうこうしている間に、西郷がしびれを切らして、はやく閣議を開いて遣韓使節の話を進めるように、三条を攻めたてるようになりました。彼は反対派が水面下で動いていることを察知して、もし特使の決定が覆されるようなことがあれば、「友人には死をもって謝るしかない」と脅しをかけてきたのです。西郷もまた決死の覚悟をしていたのでしょう。
 
 事態が切迫してきたことを意識して、大久保は「もはや木戸と直接会って話し合う以外にない」と決意するに至ります。彼は先に三条、岩倉に対して、「西郷の朝鮮派遣に反対し、内治を優先させる」旨を明記した記名入りの証文を求めました。二人は大久保が積極的に動いてくれることを期待して、彼の要請に従って証文を差し出しました。これで、もはや後には引けない状況となり、大久保はついに参議就任を承諾します。同郷の親しい友にして陸軍大将、士族の英雄たる西郷隆盛を敵にまわす覚悟を決めて、明治6年10月10日、大久保利通は反征韓派の最後の調整をして結束を固めるべく、木戸邸を訪れました。

★ 本107話にかかわる弊館内の記事:
 征韓論政変はなぜ起きたのか
 明治六年秋(三) 三条の苦境 〜


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